延文2年・正平12年(1357年)斯波兼頼によって築かれたと云われる。 兼頼は奥州探題斯波家兼の二男で北朝方として出羽国の南朝方である大江氏などを攻略するために山形へ入部した。この時築いたのが山形城の前身という。
斯波氏は後に最上氏を称し、最上氏11代最上義光は天正12年(1822年)谷地城主白鳥氏、寒河江城主寒河江氏、天童城主天童氏を降して領地を拡大する。翌天正13年(1823年)には庄内地方へも侵攻して一旦は領地化したものの、上杉氏の家臣本庄繁長に敗れて庄内を失った。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では上杉氏討伐の為に北上中の徳川家康と同調して、奥州の諸大名を従え米沢へ侵攻する手筈であったが、上方で石田三成が挙兵した為に徳川家康は上杉討伐を中止し上洛する。上杉景勝は直江兼続を主将として山形へ侵攻させ畑谷城などを落として長谷堂城へ攻め寄せたが、これを抜くことができず、関ヶ原合戦で東軍が勝利した報を受け引き上げた。
関ヶ原合戦後、最上義光は五十七万石の大大名となり、山形城を近世城郭へと大改修する。しかし、元和8年(1622年)最上義俊の時にお家騒動となって改易。近江国大森一万石にに再封されたが、義俊が没すると最上義智が家督を継いだものの幼少相続を理由に五千石に減封、交代寄合の旗本となった。
和暦(西暦) | 事象 |
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元和8年(1622年) | 陸奥国磐城平より鳥居忠政が二十万石で入封。 |
寛永13年(1636年) | 鳥居忠恒に嗣子なく改易となったが、忠恒の弟忠春が信濃国高遠で三万二百石を領する。 信濃国高遠より保科正之が二十万石で入封。 |
寛永20年(1643年) | 保科正之は陸奥国会津に転封。 |
寛永21年(1644年) | 越前国大野より松平直基が十五万石で入封。 |
慶安元年(1648年) | 松平直基は播磨国姫路に転封。 播磨国姫路より(奥平)松平忠弘が十五万石で入封。 |
寛文8年(1668年) | (奥平)松平忠弘は下野国宇都宮に転封。 下野国宇都宮より奥平昌能が九万石で入封。 |
貞享2年(1685年) | 奥平昌章の時、下野国宇都宮に転封。 下総国古河より堀田正仲が十万石で入封。 |
貞享3年(1686年) | 堀田正仲は陸奥国福島に転封。 豊後国日田より(越前家)松平直矩が十万石で入封。 |
元禄5年(1692年) | (越前家)松平直矩は陸奥国白河に転封。 陸奥国白河より(奥平)松平忠弘が十万石で入封。 |
元禄13年(1700年) | (奥平)松平忠雅の時、備後国福山に転封。 陸奥国福島より堀田正虎が十万石で入封。 |
延享3年(1746年) | 堀田正虎は下総国佐倉に転封。 下総国佐倉より(大給)松平乗佑が六万石で入封 |
明和元年(1764年) | (大給)松平乗佑三河国西尾に転封。 |
明和4年(1767年) | 武蔵国川越より秋元凉朝が六万石で入封。 |
弘化2年(1845年) |
秋元志朝の時、上野国館林に転封。 遠江国浜松より水野忠精が五万石で入封。 |
明治3年(1870年) | 水野忠弘は近江国朝日山へ転封。廃藩置県を待たずに廃藩となる。 |
山形城は山形駅の北に築かれており、現在は霞城公園として整備されている。
山形城の本丸は明治時期に埋め立てられたが、現在は発掘調査をしながら復元作業を行っており、2016年現在では本丸南東隅にあった一文字門と呼ばれる枡形の辺りが復元され公開されている。ただし本丸は公開時間に制限があるので注意が必要。
本丸の周りを二の丸、三の丸と輪郭式の縄張りで、現状水堀が巡っているのが二の丸となる。二の丸の虎口は東大手門、北不明門、西不明門、南大手門の四ヶ所にあった。
三の丸は山形駅を含む広大な敷地で、大半は市街地となってしまっているが、一部に土塁や堀の名残がある。特に良く残っているのは、三の丸南東の十日町口の土塁と堀で、歌懸稲荷神社の西背後辺りに土塁と堀がある(地図)。案内板は西側の道路に面して設置されている。
大手門(移築 城門)
御殿(移築 御殿)
一文字門(復元 城門)
二の丸東櫓門(復元 多聞櫓)
二の丸東門(復元 城門)
城内に無料駐車場がある。北の不明門から入った所に大きな駐車場がある。
二の丸東大手門を出た所に最上義光記念館がある。
最寄り駅(直線距離)