築城年代は定かではないが文中年間(1372年〜1375年)に中野満基によって築かれたと云われる。 中野氏は斯波最上氏三代最上満直の次男満基が中野に居住して中野氏を名乗った事に始まる。
中野家は惣領最上家と密接な繋がりを持っており、二代満氏、三代義淳は最上家の当主と中野家を知行し、五代義清の子義守は最上義定の養子となって宗家を継ぐ。この義守の子が最上義光で、中野家の家督は義光の弟義時が継ぐこととなる。
最上義守と最上義光はやがて父子で対立することとなり、天正2年(1574年)には伊達輝宗が義父である最上義守方として最上領に侵攻する。小競り合いが続いた後、義守は隠居して義光が家督を継ぐことで和睦が成立する。しかし、義光の弟義時は最上家の家督を継ぐことが叶わなかった事を恨み、兄を呪う為に両所宮に祈願する。このことが発覚として天正3年(1575年)義光は中野城へ攻め入り義時を自刃に追い込んだ。これを「天正最上の乱」という。以後、中野城は最上宗家の出城となった。
城は逆川の東岸、現在大郷小学校が建つ一帯に築かれていた。 西は逆川、東は泉蔵院西の道路付近、北は県道275号線の一本南の道路、南は大郷小学校南の橋の一本南の橋付近までが城域であったという。
かつては土塁と堀が残っており、地図上でも北と南に堀の名残と思われる水路のようなものが確認できるので、くまなく散策すれば遺構がまだ残っているかもしれない。
大郷小学校の南側に石碑と案内板が建つ。
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