築城年代は定かではなく諸説あるが、文明9年(1477年)倉津安房守によって築かれたと云われる。倉津氏は高擶城主義直が後に倉津安房守と名乗った説、義直の子孫説など諸説あるが詳らかではない。
倉津氏は天正12年(1584年)最上氏と天童氏との合戦で最上氏に属した。 天童城は落城、城主天童頼澄は陸奥へ逃れ天童氏は滅亡する。この勢いに乗じて最上軍は山刀伐峠を越えて小国郷へ侵攻し、小国城主細川直元はこれを馬騎原で迎え撃ったが敗れ滅亡した。この戦いで格別の功があった倉津安房守は小国郷八千石を得て、嫡子が小国日向守光基と名乗って小国城を改修し居城とした。
文禄元年(1592年)文録の役で肥前国名護屋へ出張中の最上義光が、蔵増大膳亮に留守中のことを託した手紙を書いており、蔵増氏も倉津氏の一族といわれる。
城は復郭の平城で主郭は西称寺付近で、それを囲むように二の丸、二の丸西に三の丸などの曲輪を配していた。
現在西称寺には萩姫の化粧井戸が残り、城址案内板もそこにある。北側に東西に走る道の脇に緑地公園となっている部分は堀を埋めて公園としたもので、そこから東へ行った所にある見性寺は倉津氏の菩提寺で、小国城へ移封となった際に見性寺も一緒に移されたのだが、江戸時代に再興され、いまでも開基倉津安房守の位牌があるという。