築城年代は定かではないが南北朝時代に溝延茂信によって築かれたと云われる。 溝延氏は大江氏七代時茂の長子茂信が溝延に築城して溝延氏を名乗った事に始まる。
正平11年・延文元年(1356年)北朝方の斯波兼頼が出羽に入部すると、南朝方の大江氏は斯波氏に備える為、長子茂信に溝延城、三男元時に左沢楯山城を築かせた。
溝延茂信は正平23年・応安元年(1368年)漆川の戦いで斯波氏と戦ったが敗れ一族数十人とともに自刃した。
その後の動向は詳らかではないが、天正年間(1573年〜1592年)に最上氏によって落城したという。
輪郭式の平城で本丸は南北160m東西145m、二の丸は南北300m東西312の規模であったという。現在は市街地に没して遺構はほとんど残されていないという。市街地の一画に城址公園があり、公園内に縮小された縄張が描かれている。
「藝国大守溝延長老」と刻まれた供養塔が建っている。これは天正年間(1573年〜1592年)に溝延城が最上義光の手に落ちた後、家老格だった城代安孫子紀伊が慈恩寺に帰依し溝延長老として身を隠していた所を通報され、最上氏に殺されたという。この祟りで溝延集落は豊かにならなかったといい、江戸末期に周辺の名主が霊を慰める為に建てた墓だという。
県道282号線溝延郵便局前の楯交差点を西へ行くと公園がある。
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