天正19年(1591年)豊臣秀吉によって築かれた。 全国統一を成し遂げた関白豊臣秀吉は宗義智による交渉の決裂を受け、天正19年(1591年)に翌春の唐入りを宣言し、九州の諸大名に名護屋城の築城を命じた。
文禄元年(1592年)に文禄の役が始まり、翌2年(1593年)に休戦となったが、慶長2年(1597年)に交渉が決裂して慶長の役が始まり、翌3年(1598年)豊臣秀吉が没したことによって撤退し終戦となった。
この間、北は南部信直や津軽為信、南は島津義弘・豊久まで全国の諸大名が名護屋周辺に陣を築き滞在している。この陣跡は130ヶ所を越えるという。
慶長7年(1602年)寺沢広高が六万三千石で唐津に入封し、唐津城を築城したとき、名護屋城の資材を転用して唐津城を築いた。また、明確な時代は定かではないが、石垣などの破却が行われている。
名護屋城は現在特別史跡として整備され、周辺に残る陣跡のうち下記の23ヶ所が特別史跡となっている。
生駒親正陣/
上杉景勝陣/
片桐且元陣/
加藤清正陣/
加藤嘉明陣/
木下利房陣/
木下延俊陣/
木村重隆陣/
九鬼嘉隆陣/
黒田長政陣/
小西行長陣/
島津義弘陣/
伊達政宗陣/
徳川家康陣/
徳川家康別陣/
豊臣秀保陣/
鍋島直茂陣/
長谷川秀一陣/
福島正則陣/
古田重然陣/
堀秀治陣/
前田利家陣/
毛利秀頼陣
名護屋城は本丸を中心として西下に二ノ丸と遊撃丸、東下に三ノ丸と東出丸、南西に弾正丸・搦手口、北東の麓に山里丸と台所丸を配している。
本丸は北西隅に天守台があり、五重の天守が聳えていた。虎口は北東と南東にあり、南東が大手で桝形となる。北麓にある広沢寺の所が山里丸で太閤の居館があった所と云われ、太閤の遺髪塚が残る。その近くに山里口があり、多重に折れを持つ虎口となっている。その外側には巨大な水堀跡があり、北の台所丸を覆うように残されている。
国道204号線沿いにある大手口から名護屋城博物館の駐車場が利用できる。博物館は無料で展示されており、名護屋城は清掃料の名目で100円である。