慶長7年(1603年)寺沢広高によって築かれたのが始まりとされるが、それ以前にも城郭が存在していた可能性が指摘されている。寺沢氏による築城に際しては、名護屋城や岸岳城から建材が運ばれたという。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長6年(1601年) | 長崎奉行寺沢広高が六万三千石で入封、堅高が自刃して嗣子なく除封。 |
慶安2年(1649年) | 播磨国明石より大久保忠職が八万三千石で入封。 |
延宝6年(1678年) | 忠朝の時、下総国佐倉へ転封。 下総国佐倉より(大給)松平乗久が七万石で入封。 |
元禄4年(1691年) | 乗邑の時、志摩国鳥羽へ転封。 志摩国鳥羽より土井利益が七万石で入封。 |
宝暦12年(1762年) | 利里の時、下総国古河へ転封。 三河国岡崎より水野忠任が六万石で入封。 |
文化14年(1817年) | 遠江国浜松へ転封。 陸奥国棚倉より小笠原長昌が六万石で入封、以後明治に至る。 |
唐津城は松浦川河口に半島状に突き出した標高62m程の丘陵に本丸を置き、西に二ノ丸、三ノ丸。三ノ丸南に外曲輪を配した平山城(海城)であった。現在は本丸一帯が舞鶴公園として整備されている。
本丸は標高62m程の丘陵に築かれており、現在は模擬天守などが建っている。この本丸の周囲に帯曲輪が巡り、海岸線沿いに高石垣が築かれており、海側には矢穴石も落ちている。南の駐車場の西側に舟入門、東側に水之門があった。
二ノ丸は藩主の御殿などが置かれたところで、大部分は早稲田佐賀高校の敷地となっている。二ノ丸の周囲を巡る石塁や石垣も良く残されており、西の三ノ丸との間には水堀がある。この中央部分に桝形の二之門があった。
三ノ丸は西は県営住宅、南西隅は唐津市役所の辺りで、唐津地方裁判所の南西側の歪な交差点が大手口である。南東隅の町田川に面して辰巳櫓が復元されている。門跡は北に埋門、北西に西ノ門、南中央に大手口があり、埋門と西ノ門付近は現在でも確認できる。北面の石垣は残り、西面の石垣と堀跡も残っているが、民家の裏側にあたるため、見学できる場所は少ない。
三ノ丸の南にあるのが外曲輪で、西は浄泰寺、南は唐津駅、東は町田川となる。唐津駅の辺りが町田口、浄泰寺の西側に名護屋口があった。西側一帯は現在でも高低差がある。
唐津城本丸南下に有料駐車場がある。天守のみが有料で他はいつでも散策することができる。唐津駅の東にある「唐津市ふるさと会館アルピノ」に有料のレンタサイクルがあるので、これを利用して城域を散策すると効率がよい。
最寄り駅(直線距離)