築城年代は定かではないが、波多氏によって築かれたと云われる。 波多氏の居城としては八幡神社の裏山に波多城がある。 波多氏は、源久の次男特を祖とする松浦党の一族で波多氏を名乗った。
16代波多盛が嫡子なく没すると、後室の妹の子を17代波多親として迎えたが、これに不満を抱いた重臣日高氏は岸岳城を乗っ取った。後室は龍造寺氏に岸岳城の奪還を依頼、日高氏は松浦氏に援軍を依頼したが、松浦氏の到着前に龍造寺氏が攻め寄せ、日高氏は岸岩城を破棄したという。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で、島津寄りであった波多親は秀吉に謁見したものの、軍勢は送らなかった。これによって秀吉から不興を買ったが、鍋島直茂の取りなしによって所領は安堵された。しかし、文禄の役で鍋島氏の与力大名として渡海するものの、鍋島氏と行動をともにしようとせず軍令違反を犯してしまい、渡海中に所領を没収され徳川家康にお預け、常陸国筑波山麓へ配流となった。
岸岳城は標高320mの岸岳に築かれた山城で尾根に沿って全長1km程に遺構が残っている。現在は登山道が整備されており、主要な遺構には道標が設置されるなど見学し易くなっている。
主郭は岸岳の東に位置する標高320mの所で、低い石垣に囲まれた長い曲輪で北に一段の腰曲輪があり、虎口は南北に二ヶ所ある。この本丸から西の登山口に向かって、大手門跡、二の丸、三の丸と続き、北西の尾根先に伝旗竿石がある。櫓台や二の堀切、三左衛門殿丸、北山腹の帯曲輪など一部に高石垣があるが、多くの石垣は1mに満たない低いものである。
岸岳城は二の堀切から石垣造りの遺構が始まる。二の堀切は高石垣になり、城内側は両側に張り出す形になっており、もともとは木橋が架けられていたであろう。城内側に入ると少し奥に虎口がある。
伝大手門は南側に向かって方形に窪んだ虎口があり、降りて行くと両側に石垣造りの帯曲輪がある。伝大手門から主郭の北西下の方に向かって降りて行くと、岸岳城でもっとも有名な櫓台の石垣がある。ここからさらに北へ進んでいくと、主郭の東端から北に向かって伸びた尾根に展開する曲輪群に至る。ここは巨大な竪堀があり、それに沿って段曲輪を展開しており、一部石垣が残る。
石垣の櫓台から北山腹に降りると高石垣の帯曲輪があり、中央部がコの字に凹んだ石垣を見ることができる。
本丸から北東の尾根下に降りると「三左衛門殿丸」と呼ばれる石垣造の腰曲輪があり、そこから尾根先に向かう遊歩道を進むと「伝抜け穴」や「伝姫落し岩」といった史跡に至る。
波多城の登り口である八幡神社から車道があり、要所要所に道標があるので迷わず駐車場まで到達できる。駐車場からの比高は130m程である。
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