下総 古河城しもうさ こがじょう

城郭放浪記


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下総 古河城の写真
掲載写真数
形態
平城
別 名
なし
文化財指定
なし/不明
遺 構
城 主
下河部氏,古河公方,小笠原秀政,(戸田)松平康長,小笠原信之,小笠原政信,奥平忠昌,永井直勝,永井尚政,土井利勝,土井利隆,土井利重,土井利久,土井利益,堀田正俊,堀田正仲,松平信之,松平忠之,松平信輝,松平信祝,本多忠良,本多忠敝,(松井)松平康福,土井利里,土井利見,土井利厚,土井利位,土井利亨,土井利則,土井利与
歴 史

築城年代は定かではないか鎌倉時代に下河部行平によって築かれたと云われる。 下河部氏は小山政光の弟行義が下河部氏を名乗った事に始まり、その子行平が城を築いたという。

関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことがきっかけとなって享徳の乱が勃発すると、室町幕府も上杉方を指示し、駿河守護今川氏によって鎌倉は占拠され、成氏は古河公方館へ身を寄せる。これによって古河公方と呼ばれることとなり、成氏は後に修築した古河城へと入り、代々の御座所となった。

和暦(西暦) 事象
天正18年(1590年) 信濃国松本より小笠原秀政が三万石で入封。
慶長6年(1601年) 小笠原秀政は信濃国飯田へ転封。
慶長7年(1602年) 上野国白井より(戸田)松平康長が二万石で入封。
慶長17年(1612年) (戸田)松平康長は常陸国笠間へ転封。
武蔵国本庄より小笠原信之が二万石で入封。
元和5年(1619年) 小笠原政信の時、下総国関宿へ転封。
下野国宇都宮より奥平忠昌が十一万石で入封。
元和8年(1622年) 奥平忠昌は宇都宮釣天井事件とも呼ばれる本多正純の突如の改易により、下野国宇都宮に転封。
常陸国笠間より永井直勝が七万二千石で入封。
寛永10年(1633年) 永井尚政の時、山城国淀へ転封。
下総国佐倉より土井利勝が十六万二千石で入封。
寛永12年(1635年) 土井利勝は本丸に天守代用の御三階櫓、本丸御殿、二の丸殿舎などを築く。
天和元年(1681年) 土井利久が10歳で没し、嗣子無く断絶となる所を長年の功により、実兄利益に七万石で相続が家名相続が認められ志摩国鳥羽へ転封。
上野国安中より堀田正俊が九万石で入封。
天和2年(1682年) 堀田正俊は大老に昇進し四万石を加増され十三万石となる。
貞享元年(1684年) 堀田正俊は江戸城中にて若年寄稲葉正休に刺殺される。
貞享2年(1685年) 堀田正仲の時、出羽国山形へ転封。
大和国郡山より(藤井)松平信之が九万石で入封。
元禄6年(1693年) 松平信之の跡を相続した松平忠之は発狂したとして改易。ただし名門の家柄であるということで、弟信通が家名相続して備中国庭瀬に三万石で転封。
元禄7年(1694年) 武蔵国川越より(大河内)松平信輝が七万石で入封。
正徳2年(1712年) 松平信祝の時、三河国吉田へ転封。
三河国刈谷より本多忠良が五万石で入封。
宝暦9年(1757年) 本多忠敝の時、石見国浜田へ転封。
石見国浜田より(松井)松平康福が五万石で入封。
宝暦12年(1762年) (松井)松平康福は三河国岡崎へ転封。
肥前国唐津より土井利里が七万石で入封。
以後、土井氏が続いて明治に至る。

説 明

城は渡良瀬川の東岸の平地に築かれていたが、現在城の中核部分は河川工事によって失われ、堤防や河川敷となってしまった。本丸跡を示す標柱が川の土手の上に通る歩道沿いに建てられている。

残っている遺構は僅かでは有るが、古河歴史博物館付近に堀跡が残っている。今回は時間が合わず歴史博物館が閉まっていたので、その辺りは博物館を見に行く時に散策したいと思う。

案 内
最寄り駅(直線距離)
1.0km 新古河駅
1.5km 古河駅
3.9km 柳生駅
5.6km 栗橋駅
5.6km 栗橋駅
所在地/地図
茨城県古河市古河
付近の城(直線距離)
1.2km 下総 古河公方館
5.8km 上野 海老瀬城
6.4km 下野 針ヶ谷氏館
6.8km 下総 小堤城
7.2km 下野 法音寺城
7.5km 下総 水海城
7.6km 上野 板倉城
8.2km 上野 飯野城
9.1km 下総 栗橋城
9.2km 下野 藤岡城
最終訪問日
2009年4月
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