築城年代は定かではない。永正2年(1506年)西脇衆が赤沢朝経軍の来襲に備えて籠城し、二日後に落城したというのが初見とされる。
永禄2年(1559年)松永久秀が大和に入り信貴山城主となると、筒井氏との争いが激化し、永禄11年(1568年)には筒井城、元亀元年(1570年)には井戸城が落城し、筒井方はこの郡山城を死守した。翌元亀2年には辰市城合戦で筒井氏は松永久秀を決戦の末撃ち破っている。
天正5年(1577年)松永久秀が滅亡すると、筒井順慶は織田信長から大和守護に任ぜられ多聞山城の石垣を取り崩して筒井城を拡張したが、天正8年(1580年)信長によって城割を命ぜられ、郡山城を本城とし他は破却された。この天正8年(1580年)より本格的な改修が始まった。
天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れると、明智光秀と友好関係にあった順慶は光秀に味方するよう催促されたが動かず、中国より急ぎ戻ってきた羽柴秀吉に味方して大和を安堵された。
天正12年(1584年)筒井順慶が没して養子の定次が家督を継ぐと、天正13年(1585年)伊賀国上野へ転封となり、代わって秀吉の弟豊臣秀長が大和・紀伊・摂津百万石の大名として入国した。
天正19年(1591年)に秀長が没し、永禄4年(1595年)に家督を継いだ豊臣秀保も急死したことから大和大納言家は滅亡し、五奉行の一人増田長盛が近江国水口岡山城から二十二万三千石の大名として郡山に入った。しかし、長盛は慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に属して改易となり高野山に登った。
その後は奈良の代官となっていた大久保長安や山口駿河守直友が城を預かっていたが、慶長13年(1608年)伊賀国上野の筒井定次が改易となると、従兄弟の筒井定慶が大和郡山一万石で存続を許され城主となった。慶長20年(1615年)大坂夏の陣が始まると、その緒戦で大坂方の軍勢が大和郡山城へ押し寄せた。城主の筒井定慶はわずか一千程度の兵であったため、郡山城を脱して自身の出身である福住中定城へと退いた。戦後、この敵前逃亡を恥じて自刃したという。
和暦(西暦) | 事象 |
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元和元年(1615年) | 三河国刈谷より水野勝成が六万石で入封。 |
元和5年(1619年) | 水野勝成は備後国福山へ転封。 摂津国大坂より松平忠明が十一万石で入封。 |
寛永16年(1639年) | 松平忠明は播磨国姫路へ転封。 播磨国姫路より本多政勝が十五万石で入封。 |
寛文11年(1671年) | 政勝没後の御家騒動によりにより本多政長十二万石、本多政利六万石となる。 |
延宝7(1679年) | 本多政長死去により政国が家督を継いで陸奥国福島へ転封、本多政利も播磨国明石へ転封。 播磨国明石より松平信之が八万石で入封。 |
貞享2年(1685年) | (藤井)松平信之は下総国古河へ転封。 下野国宇都宮より本多忠平が十一万石で入封。 |
享保7(1722年) | 本多忠烈は幼小で家督を相続したため五万石に減封、さらに同年夭折し除封となる。 |
享保8(1723年) | 本多忠烈は夭折し除封となる。 |
享保9(1724年) | 甲斐国府中より柳沢吉里が十五万一千二百八十八石で入封。 以後柳沢氏が続き明治に至る。 |
郡山城は大和郡山市役所の北西の丘陵に築かれている。 平城とされることもあるが、微丘陵地帯で本丸よりも更に西側が高い地形になっている。
郡山城は柳沢神社のある本丸を中心に東に毘沙門曲輪、三ノ丸、西に御厩、麒麟曲輪、南に二ノ丸などを配しており、城内に学校などの施設があるが全体的に縄張りは良く残されている。
本丸は柳沢神社のある所で、北側に天守台があり、「さかさ地蔵」が有名である。 東の毘沙門曲輪には柳沢文庫、その北の一庵丸には城址会館などがある。この部分が大手で、復元建物として追手門、追手向櫓、東隅櫓、多聞櫓などが建っている。
門跡は北東に桜御門、南東に鉄御門、西に西御門、松蔭御門、南に南御門などがあり、市役所のある辺りは三ノ丸の南端で、柳御門、頬当御門跡がある。
2021年極楽橋が復元された。
南御門(移築 城門)
追手門(復興 櫓門)
追手向櫓(復興 櫓)
東隅櫓(復興 櫓)
無料の駐車場が追手門前にある。これは市役所南西の交差点を北へ入り、すぐ先の道を西へ曲がって線路を渡り、鉄御門跡を抜けて北へ堀沿いに進むと行くことができる。(地図)
最寄り駅(直線距離)