天文2年(1533年)水野忠政によって築かれた。 忠政は松平広忠に娘の於大を嫁がせ松平氏と結んでいたが、忠政の跡を継いだ信元は織田氏と結び、松平氏にも織田氏と結ぶことを要求したが、広忠は於大を離縁してこれを拒否した。
永禄3年(1560年)桶狭間合戦で信元は尾張国緒川城へ入り、刈谷城は弟の信近が守っていたが、今川義元が討死すると尾張国鳴海城にいた岡部長教が手薄な刈谷城へ攻め寄せ信近を討ち取った。しかし、信元はすぐさま刈谷城へ押し寄せこれを取り戻したという。
・元和元年(1615年)水野勝成が大和国郡山へ六万石で転封。
・元和2年(1616年)上野国小幡より水野忠清が二万石で入封。
・寛永9年(1632年)忠清は三河国吉田へ四万石で転封。
・寛永9年(1632年)三河国吉田より(深溝)松平忠房が三万石で入封。
・慶安2年(1649年)忠房は丹波国福知山へ四万五千石で転封。
・慶安2年(1649年)伊勢国長島より(久松)松平定政が二万石で入封。
・慶安4年(1651年)定政・定知父子は徳川家光が没すると出家して領地を幕府へ返上する旨を幕府の井伊直孝へ提出したが、幕府は定政が発狂したとして除封となる。
・慶安4年(1651年)越後国三条より稲垣重綱が二万三千石で入封。
・元禄15年(1702年)重富の時、上総国大多喜へ転封。
・元禄15年(1702年)上総国大多喜より阿部正春が一万六千石で入封。
・宝永7年(1710年)正鎮の時、上総国佐貫へ転封。
・宝永7年(1710年)本多忠良が越後国村上より五万石で入封。
・正徳2年(1712年)忠良は下総国古河へ転封。
・正徳2年(1712年)日向国延岡より三浦明敬が二万三千石で入封。
・延享4年(1747年)義理の時、三河国西尾へ転封。
・延享4年(1747年)三河国西尾より土井利信が二万三千石で入封。
以後、土井氏が明治まで続く。
現在は亀城公園となっており本丸部分と水堀が残っている。
北側に刈谷歴史博物館ができていて、かっこいい刈谷城の模型が展示されている。