築城年代は定かではない。蒲原郡の中心として栄えた三条には三条城、三条嶋城と呼ばれる城郭が中世にあり、代官として山吉氏が代々城主であった。
山吉豊守は上杉謙信が越中へ出陣の際は、春日山城の留守を務めるなど重用されたが、豊守没後は山吉氏は木場城へ移され、替わって神余親綱が三条城主となった。 御館の乱で神余親綱は上杉三郎景虎に与し、景虎没後も三条城に籠もって抵抗したが山吉景長が城内の旧臣に内応を誘い、それに応じたものに親綱は討たれ落城した。
慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ移封となると、越前国北之庄より堀秀治が越後に入封、このとき三条城主として堀直政、城代として直政の嫡男直清が入城し五万石を領した。 慶長15年(1610年)堀氏は御家騒動によって改易となり、三条城も廃城となった。
三条城の所在地については信濃川の氾濫などによってわからなくなっており、中世の三条城は信濃川と五十嵐川が合流する地点の西側辺りと推測されいる。現在信濃川に架かる瑞雲橋から西へ進んだ県道1号線南側に「三条島ノ城跡」の石碑が建っている(地図)。近世の三条城についても明確な所在は不明だが、対岸の三条小学校から北三条駅付近と推測されている。
唯一の遺構とされるのは本城寺に寛永19年(1642年)に移築されたと伝わる黒門である。
城門(移築 城門)