天正3年(1575年)柴田勝家によって築かれた。 一乗谷の朝倉氏を滅ぼした織田信長は重臣の柴田勝家に越前八郡四十七万石を与えた。
柴田勝家は北庄城を居城として北陸、越後方面に進軍し上杉氏と戦った。天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変によって倒れると、信長の後継を羽柴秀吉と争うようになる。天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家を敗った羽柴秀吉はそのまま越前の北庄城まで攻め込みこれを落とした。
その後、北庄城は丹羽氏、堀氏、青木氏が入ったが、関ヶ原合戦によって青木一矩が改易となると、徳川家康の二男結城秀康が越前に入部した。秀康は北庄城を取り込む形で福井城を築いた。
北庄城は福井城の南方にある柴田神社の辺りが本丸と推測されており、発掘調査によって北庄城の堀が検出されている。また、この辺りは福井城の三の丸日向門跡でもある
柴田神社の近くに発掘調査で見つかった堀や石垣が一部露出展示、その脇に北の庄城址資料館がある。
羽柴秀吉が小早川隆景に送った書簡には「城中に石蔵を高く築き、天主を九重に上げ候」などと記されており、巨大な天守が聳えていた可能性がある。