築城年代は定かではない。 藤島城は近接する林城としばしば混同されているが、足羽七城の一つとされる。
延元3年・建武5年(1338年)南朝方杣山城の新田義貞が、北朝方の足利高経が籠る府中を攻め落とすと、高経は足羽へ逃れた。新田方は河合城に三万余騎の軍勢を集め、軍勢を分けて足羽七城を攻めたてた。この時新田義貞は北朝方へ寝返った平泉寺衆徒の籠る藤島城攻めの加勢にが向かったが、途中小黒丸城から藤島城へ援軍に向かっていた足利方と遭遇し、燈明寺畷で義貞は討死した。(藤島の戦い)
藤島城は西超勝寺一帯に築かれていたと云われ、現在山門脇に石碑と案内板が建っている。本堂の北背後に遺構の一部と云われる土塁跡が僅かに残っている。