正応3年(1290年)時宗二代目真教上人によって称念寺は開山された。 南北朝時代には称念寺一帯に「長崎道場」とも呼ばれる拠点が築かれ、長崎城を巡る争いがしばしば起こった。
暦応元年・延元3年(1338年)新田義貞が討死すると、遺体は時宗の僧八人に担がれて称念寺に葬られたという。
文明11年(1479年)越前国守護斯波義良(のち義寛)は越前を回復しようと越前へ侵攻し、長崎城をはじめ金津城・兵庫城・新庄城などを落としたが、文明13年(1481年)9月に朝倉氏と戦って敗れた。
長崎城は称念寺一帯に築かれていたという。称念寺は「字願成寺」、西に「字西門」、北に「字北門」、南に「字古屋敷」の地名が残る。