天正4年(1576年)柴田勝豊によって築かれた。勝豊は柴田勝家の姉の子で勝家の養子である。
天正3年(1575年)越前国を平定した柴田勝家は北庄城を築き、勝豊を豊原寺城に置いたが、勝豊は翌年丸岡城を築いて居城を移した。
天正10年(1582年)柴田勝豊は近江国長浜城へと移り、丸岡城には勝豊の家臣安井家清が城代として在城する。天正11年(1583年)柴田勝家は賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉に敗れて北庄城も落城、越前国は丹羽長秀の所領となり、家臣青山宗勝が四万六千石で城主となった。宗勝ははじめ丹羽長秀の家臣であったが、天正13年(1585年)に長秀が没した後は秀吉の家臣となっている。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で青山忠元は西軍に属したため改易となり、慶長6年(1601年)越前国に入部した結城秀康の家臣今村盛次が二万五千五百石で城主となった。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長17年(1612年) | 百姓殺害に端を発した久世騒動が起こり、今村盛次は所領没収となって出羽国山形藩に御預けとなる。 |
慶長18年(1613年) | 本多成重が松平忠直の付家老となって四万三千三百石を領して丸岡城主となる |
元禄8年(1695年) | 本多重益は所領没収となって因幡国鳥取新田藩に御預けとなる。 有馬清純が越後国糸魚川より五万石で入封、以後有馬氏が続いて明治に至る。 |
現存天守が存在する数少ない城郭の一つであるが、残念ながら城郭の大半の遺構は消滅しており、現在は霞ヶ城公園となった本丸に天守がポツンと建っている感じである。せめて本丸の堀だけでも残っていればと思うのだが、堀はすべて埋め立てられてしまった。
天守は現存最古ともいわれ(諸説ある)二重三階の望楼型である。瓦は石瓦で、これは寒冷地であるが故ともいわれる。昭和23年(1948年)福井地震によって倒壊したが、元通りに復元されている。縄張は本丸の北に二の丸を配し、それを取り囲むように三の丸を配していた。
天守(現存 天守)
不明門(移築 城門)
城門(移築 城門)
城門(移築 城門)