慶長6年(1601年)結城秀康によって築かれた。
関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は二男の結城秀康に越前一国と若狭、信濃の一部など七十五万石を与え、北之庄城の青木一矩は改易となる。秀康はこの北之庄城を含む一帯を改修して福井城を築いた。福井の名は三代忠昌による改名であり、初期の頃は北之庄であった。
福井藩は府中城主本多富正三万九千石、丸岡城主今村盛次二万五千石など重臣を支城に配した。
秀康が没して嫡男忠直が家督を継いだが、大坂の陣の論功行賞に不満を持ち幕府と確執、このため隠居を命ぜられ賄領五千石で豊後へ配流となった。忠直には幼い仙千代がいたが、幕府は秀康の二男で越後国高田藩主であった松平忠昌に越前北之庄への転封を命じ、仙千代を越後国高田藩主とした。このとき家臣団も再配置されている。
松平忠昌が福井藩主となると弟直政に大野藩五万石、直基に勝山藩三万石、直良に木本藩二万五千石を分与している。
正保2年(1645年)松平光通が家督を継ぐと、兄昌勝に松岡藩五万石、弟昌親に吉江藩二万五千石を分与し、福井藩は四十五万石となる。
延宝2年(1674年)光通は吉江藩を興した弟昌親を家督を譲る遺言を残して自刃する。これにより昌親が福井藩を相続、分与されていた二万五千石も併せて四十七万五千石となったが、わずか二年で松岡藩主昌勝の嫡男綱昌に家督を譲った。しかし、この綱昌が乱心したため福井藩は改易となった。
一旦改易となった福井藩であったが、家康の二男秀康を藩祖とする由緒ある家柄であったことから、先代の藩主で隠居していた昌親あらため吉品が七代藩主として再興、このとき所領はほぼ半減の二十五万石となった。
享保6年(1721年)松岡藩五万石の藩主であった宗昌が吉品の養子となって宗家の家督を継いだため、福井藩は松岡藩領五万石と併せて三十万石となる。
文政元年(1818年)十三代治好が徳川十一代将軍家斉の娘と婚約、これにより二万石が加増され三十二万石となる。以後、代々続き明治に至る。
福井城は福井駅の北側にあり、現在本丸には福井県庁や福井県警などがある。
本丸は南が大手で御本城橋が架かり、瓦御門で枡形になっていた。北西隅に天守、南西隅に坤櫓、南東隅に巽櫓、北東隅に艮櫓があったが、現在櫓などの建物はない。
西に御廊下橋が復元、北にやや離れた所にある市立郷土歴史博物館には舎人門が復元されている。また山里口門を復元しているようであった。
舎人門(復元 城門)
御廊下橋(復元 橋)
福井駅から徒歩圏内。駐車場は周辺の駐車場または市立郷土歴史博物館に駐める事ができる。市立郷土歴史博物館には福井城本丸の復元模型などの展示がある。
最寄り駅(直線距離)