天正8年(1580年)柴田勝安(後の勝政)によって築かれた。
織田信長の武将柴田勝家が越前北庄城主となると、その養子であった柴田勝安が勝山城を築いて居城とした。柴田氏が羽柴秀吉に滅ぼされると、成田重政、長谷川秀一と替わり、関ケ原合戦の後は越前福井に入国した結城秀康の支城の一つとなったが、元和の一国一城令によって廃城となった。
元禄4年(1691年)美濃国高須から小笠原貞信が二万三千石で入封した。このとき、居城がなく幕府に築城許可を求めたが、実際に許可が降りたのは宝永6年(1709年)で二代小笠原信辰のときであった。
勝山城は現在の勝山市役所一帯に築かれていた。
市役所の隣にある市民会館のあたりに天守台があったが、市民会館の建設によって削平され、現在は小公園に石碑が残るだけである。
市役所の北にある教育会館西側の駐車場のところに大きな高低差があり、西方寺の墓地の一角に高い土盛りが残るが、土塁の一部であろうか。
成器堂演武寮(移築 その他)
成器堂正門(移築 城門)
成器堂蔵(移築 倉庫)
成器堂講堂(移築 その他)
観光用天守(模擬 天守)