築城年代は定かではない。暦応元年(1338年)美濃国石津郡に地頭職を賜った氏家重国が館を構え、これを高須城の前身とする説がある。
大永2年(1522年)大橋重一が築き、以降、信重、重長と続く。大橋氏は後に勝幡城の織田信秀に属し、天文年間(1532年〜1555年)以降は高津直幸、平野長治、秋山信純など多くの城主が入れ替わった。
関ヶ原合戦後、松ノ木城から徳永寿昌が五万七百石で高須城に入り高須藩となったが、二代徳永昌重は寛永4年(1627年)大坂城改修工事で監督不行届があり、改易され、出羽国鶴岡藩酒井忠勝、さらに出羽国新庄藩戸沢政盛にお預けとなった。同じく嫡男徳永昌勝もお預けの身となっていたが慶安元年(1648年)に赦され、子孫は二千二百石の旗本として速続している。
寛永17年(1640年)下総国関宿から小笠原貞信が二万二千七百石で高須へ移ってきたが、度重なる洪水などに悩まされ、自ら領地替えを幕府に願い出て、元禄4年(1691年)に越前国勝山へ転封となった。
その後は天領となっていたが、元禄13年(1700年)尾張藩主徳川光友の次男で信濃国高井藩主松平義行が高須藩へ転封となり、以降、高須藩三万石として代々続いた。
高須城は現在の海津明誠高校の辺りに築かれていたが、現在は市街地となって遺構はほとんど残っていない。
高須小学校の北側に「城跡公園」があり案内板がある。北東には「主水橋」があり、ここにも案内板が設置されている。