築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)に中島三郎大夫重長によって築かれたと云われる。
中島重長は美濃守護代斎藤利国の家臣で、以後重直、重光、重行と続いたが、永禄5年(1562年)織田信長の西美濃攻略によって中島氏は滅亡した。
その後、駒野城主であった高木貞久が今尾城へ移り、貞利、貞盛と続いたが、天正12年(1584年)小牧長久手合戦で織田信雄に従っていたため、秀吉軍によって攻められ、戦後に秀吉の家臣吉村氏吉に与えられた。
天正15年(1587年)青柳城から市橋下野守長勝が移って今尾城主となり一万石余を領した。関ヶ原合戦では東軍に属して戦功があり一万石を加増されて二万石余の大名となる。慶長15年(1610年)伯耆国八橋に二万一千石余りで移ったが、元和2年(1616年)に越後国三条に転封、元和6年(1620年)嗣子なく没して所領を失ったが、養子であった市橋長政に家督相続が認められたため、改めて近江国仁正寺に二万石が与えられた。
市橋氏の後は天領となっていたが、元和5年(1619年)尾張藩付家老竹腰山城守正信が二万石で今尾城に入り、元和8年(1622年)には三万石に加増された。以後、竹腰氏が代々続いて明治に至る。
今尾城は現在の今尾小学校の辺りに築かれていた。小学校の入口付近に案内板が設置されており、近くの西願寺には山門として城門が移築現存している。
表門(移築 城門)