築城年代は定かではないが行松正盛によって築かれたと云われる。
大永4年(1524年)出雲の尼子経久によって攻められ落城し、その後は吉田左京亮が入城した。
永録8年(1565年)備中松山城主三村家親が毛利氏の援軍を得て来襲し、籠城していた尼子部将吉田源四郎は城門を開き敵軍を突破して尼子本城の富田城に逃亡した。 後に毛利部将杉原盛重が城主となり尾高城と共に羽衣石城の南条氏の押えとした。
慶長5年(1600年)中村一忠が伯耆一国を領して米子へ入部すると、叔父の中村一栄が三万石で八橋城主となる。
慶長14年(1609年)中村一忠が嗣子なく没して改易となると、美濃国今尾より市橋長勝が二万一千石で入封、元和2年(1616年)に越後国三条に四万三千石で転封となった。
元和3年(1617年)池田光政が因幡・伯耆の領主となると池田長明が入ったが、一国一城令によって廃城となった。寛永9年(1632年)池田光仲が入封すると津田元匡が入り陣屋を構え、以後津田氏が続いて明治に至る。
八橋城は山陰本線八橋駅の北にある比高15m程丘陵に築かれていた。
西が本丸、東が二の丸とされ周囲には堀が巡っていたようであるが、現在は山陰本線によって分断されている。二の丸の西側面、北側側面、本丸西側面などに石垣が残されている。
南東にある体玄寺が津田氏の菩提寺で歴代の墓が残っている。
八橋駅に駐車できる。
最寄り駅(直線距離)