築城年代は定かではないが南北朝時代に南条貞宗によって築城されたと云われる。 貞宗は塩冶高貞の次男で越前国南条郡に育ち南条と名乗った。
大永4年(1524年)尼子氏の攻撃により落城し城主宗勝は因幡に逃亡これを「五月崩れ」と言う。尼子経久は次男国久を伯耆3郡を与え城主とした。
尼子氏が毛利氏に滅ぼされると宗勝は羽衣石城に復帰することができ、家督を元続に譲って月山富田城の吉川元春らに謁見し帰途発病して没した。 これを毛利方の謀略と見た元続は羽柴秀吉の誘いに応じて毛利氏に敵対することとなる。
天正7年(1579年)吉川元春は羽衣石の攻撃を開始し激戦の末落城、毛利元経を城主として因幡への押えとした。しかし、因幡に逃亡した元続は同年秀吉の援軍を得て再び取り戻す。 その後も因幡・伯耆をめぐって幾度が戦いがあったが最終的に鳥取城を落とした秀吉と毛利氏で和睦が成立し八橋を除く伯耆4郡を南条氏が治めることとなった。
関ヶ原合戦において南条氏は西軍方に付いた為、城を追われそのまま廃城となった。
羽衣石城は標高376mの羽衣石山に築かれており、現在主郭には模擬天守が建っている。
羽衣石城は山頂の主郭部の遺構と北山腹の支尾根の遺構に大きく分かれている。
山頂の主郭部は公園造成されており、細かな部分は定かではないが、東西に長い楕円形の主郭を取り囲むように帯曲輪が巡り、北側には腰曲輪が付く。虎口と思われる遺構は南側に確認でき、巨石をうまく利用して屈折させる虎口があり、南側面へと降りて行く通路が途中まで伸びている。この南側面には石積を見ることできる。東へ続く尾根は大きく自然の鞍部となっているものの明瞭な堀切にはなっていない。
山腹の支尾根は「お茶の水井戸」と呼ばれる湧き水があり、現在も水で満たされている。この井戸の側面に石垣があり、そこから下へ段遺構が続く。また八幡社が祀られている尾根にも比較的大きな段曲輪群が連なっている。
天守(模擬 天守)
羽衣石川沿いに南下していくと道標があり、終点の登山道入口に駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)