築城年代は定かではないが天文14年(1545年)山名誠通によって築かれたのが始まりと云われる。
因幡国守護職で天神山城主の山名誠通が、宗家で但馬国守護職山名祐豊と対立するようになると天神山城の出城として鳥取城を築いたという。天文17年(1548年)山名誠通は八上口に兵を出して手薄となっていた天神山城を祐豊の軍勢に急襲され誠通は討死した。
その後、因幡武田家の武田国信が鳥取城番を願い出て許され、その子武田高信のときに鳥取城を居城とするようになった。高信は山名一族の山名豊弘を擁立して因幡山名氏と対立するようになり、やがて因幡一帯に勢力を拡げた。しかし、元亀2年(1571年)に但馬国芦屋城主の塩冶周防守高清を攻めて嫡男又太郎・二男与十郎を失うなど大敗を喫し、翌3年には山名豊国を助けた山中鹿之介との戦いでも大敗を喫した。その後、高信は鳥取城を山名豊国に明け渡し、自身は鵯尾城へ退いた。
天正元年(1573年)山名豊国は天神山城から鳥取城へ居城を移した。天正年間(1573年〜1592年)始めに毛利の武将吉川元春の軍勢が因幡に進出すると豊国は毛利に降った。 天正8年(1580年)羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めでは、若桜鬼ヶ城、鹿野城を攻め落として鳥取城を取り囲むと豊国は秀吉に降った。
毛利に通じる重臣は山名豊国を鳥取城から追放し、吉川元春に城将の派遣を要請、元春は石見国福光城主吉川経安の嫡男吉川経家を城将として派遣した。 天正9年(1581年)第二次鳥取城攻めでは、秀吉が若狭から因幡へ商船を派遣して穀物を高値で買い占めさせておいた為、城内にはわずか二十日分程の兵糧しかない状態であったという。鳥取城を取り囲んだ羽柴秀吉は太閤ヶ平に本陣を構え、唯一海路から丸山城・雁金城を経て鳥取城へ通じる補給路を断つ為、宮部善祥坊に雁金城を攻略させた。やがて籠城兵は飢餓に陥り餓死者が続出する有様となると城将吉川経家は降伏開城し、自刃して果てた。
鳥取城を落とした秀吉は宮部善祥坊に五万石を与えて鳥取城代とした。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で宮部長房は西軍に属して改易となり、池田備中守長吉が六万石で鳥取城主となった。
和暦(西暦) | 事象 |
---|---|
元和3(1617年) | 池田長幸のとき備中国松山へ転封。 播磨国姫路より池田光政が三十二万石で入封。 |
寛永9(1632年) |
備前国岡山藩を継いだ光仲が幼小であることを理由に、岡山藩と鳥取藩で所領交換が行われた。 池田光政のとき備前国岡山へ転封。 備前国岡山より池田光仲が三十二万石で入封、以後代々続いて明治に至る。 |
鳥取城は鳥取市街地の北東に聳える標高263mの久松山山頂と南麓に築かれている。鳥取城は山頂部の山上の丸、山麓部の山下の丸に大別される。
山麓部は最高所の天球丸、天球丸の西下に二ノ丸、鳥取西高校のある所が三ノ丸、仁風閣のある所が扇御殿、県立博物館のある所には城代屋敷・上御厩・米蔵などがあった。外側には内堀を配し、北に北御門、南に中御門があった。近年石垣などが整備されており、天球丸には石垣が崩れるのを防ぐ為に設けられた巻石垣まで復元されている。
山頂部は北端から西へ本丸・二ノ丸・三ノ丸と続き、本丸西下に出丸がある。本丸の北端隅に天守台があり、かつては天守が聳えていたが元禄5年(1692年)に落雷により焼失し、以後再建されることはなかった。
山麓の中ノ御門跡に大手門(中ノ御門)が復元された。復元された門には葵の御紋が入った瓦が葺かれている。
鳥取城で自刃した吉川経家の像は県庁北側にある武道館の片隅にあり(地図)、経家の墓は山の北側の円護寺にある吉川公園に残っている(地図)。
中仕切門(復元 城門)
県立博物館の駐車場が利用できる。休日の場合、県庁の駐車場も無料開放されるようで、こちらの駐車場も利用できる。
山上の丸に至る登山道は二ノ丸と天球丸との間にあるが、太閤ヶ平から続く遊歩道などもある。
最寄り駅(直線距離)