仁治元年(1240年)に秋庭重信が臥牛山に大松山城を築いたのが始まりとされる。 承久の乱で功のあった重信が備中国有漢郷の地頭職を得て入部した。
この城は築城以来、備中国を治めようとする幾多の有力国人によって争奪戦が繰り広げられた。 元亀2年(1571年)に三村元親が入城すると大松山,天神丸,小松山,前山と臥牛山全域に城郭を構え、明禅寺合戦の敗北で衰退していた勢いを回復しつつあったが、天正3年(1575年)毛利氏によって攻められた元親は阿部深山まで逃れたが自刃して果てた。 以後は毛利氏の城番が置かれた。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後は天領となり、小堀氏が備中総代官として城の復興を行った。
和暦(西暦) | 事象 |
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元和3年(1617年) | 因幡国鳥取より池田長幸が六万五千石で入封。 |
寛永18年(1641年) | 池田長常が嗣子なく没したため改易。 |
寛永19年(1642年) | 備中国成羽より水谷勝隆が五万石で入封。 |
寛文4年(1664年) | 勝隆が没して勝宗が家督を継ぐと、弟勝能に二千石を分知し四万八千石となる。 |
元禄6年(1693年) | 水谷勝美が嗣子なく没して改易となる。ただし勝美の弟水谷勝時が三千石の旗本として名跡を継ぐことがゆるされた。 |
元禄8年(1695年) | 上野国高崎より安藤重博が六万五千石で入封。 |
宝永8年(1711年) | 安藤信友は美濃国加納へ転封となる。 変わって山城国淀より石川総慶が六万石で入封。 |
延享元年(1744年) | 石川総慶は伊勢国亀山へ転封となる。 変わって伊勢国亀山より板倉勝澄が五万石で入封。 |
明治2年(1869年) | 板倉勝弼が二万石に減封のうえ家督相続を許される。 |
備中松山城は高梁川東岸に聳える標高487mの臥牛山に築かれている。はじめに築城されたのは臥牛山の北西側にある大松山城で、そこから拡張されて現在の松山城がある小松山城まで拡がっている。
近世城郭としての松山城は小松山城を本丸とし、そこから南に伸びた尾根に「上の太鼓丸」、「下の太鼓丸」と呼ばれる曲輪を配し、山麓に根小屋を築いてそこを政庁とした。このように近世城郭として完成したのは水谷氏の時代であった。
現存する建物は天守、二重櫓、一部の土塀で、五の平櫓、六の平櫓や城門は復元されたものである。
本丸は天守のある小さな曲輪で、その南にあるのが二の丸となる。二の丸には雪隠が二基あるが、東屋の裏にあるので見落としやすい。二の丸から南に腰曲輪、三の丸と続き大手門となるが、大手門から見上げる石垣群は壮観である。
本丸から北へ向かうと「土橋」と書かれたところがあり、堀切に木橋が架かる。ここが水ノ手で大松山城の近くにある大池からこの辺りまで水を引いていたらしい。
山上の駐車場である「ふいご峠」の南にあるのが下の太鼓丸で、この曲輪群も石垣造りの遺構が良く残る。
山麓にある高梁高校の敷地が根小屋で石垣が良く残っている。
天守(現存 天守)
二重櫓(現存 櫓)
土塀(現存 その他)
五の平櫓(復元 櫓)
六の平櫓(復元 櫓)
本丸東御門(復元 城門)
腕木御門(復元 城門)
車の場合、平日はふいご峠の駐車場まで自走可能だが、休日はバスによるアクセスとなる。歩いて登る場合、武家屋敷前に無料駐車場があり、登山口はふいご峠の方に向かう車道の途中にある。
最寄り駅(直線距離)