文安2年(1445年)革手城の支城として斎藤利長が築いたのが始まりとされる。この城は天文7年(1538年)頃に一旦廃城となった。
慶長6年(1601年)徳川家康は岐阜城を廃城とし再び加納城の築城を命じ、天下普請によって築かれた。 この時岐阜城の天守や櫓、石垣等を移築転用している。 最初奥平信昌が上野国宮崎から十万石で入城するが寛永9年(1632年)忠隆が没すると嫡子なく断絶する。続いて武蔵国騎西城から大久保忠職が五万石で入封するが寛永16年(1639年)播磨国明石城に七万石で転封となる。 入れ替わりで戸田光重が播磨国明石城から七万石で入封、戸田光煕の時、山城国淀城に転封となり、備中国松山城から安藤信友が六万五千石で入封する。安藤信成の時、陸奥国磐城平城へ転封となり、武蔵国岩槻城より永井直陳が三万二千石で入封、以後永井氏が六代続いて明治に至る。
加納城は現在本丸が加納公園として整備されている。
加納城は本丸の東に張り出した部分から二の丸に対して木橋が架かり大手となっていた。現在残るのは本丸と二の丸北面の石垣の一部で、本丸は保存状態がよく石垣が一周している。二の丸の石垣は加納小学校のプールの北側面と思われる。
門(移築 城門)
門(移築 城門)
二の丸門(移築 城門)
公園の南側に駐車場がある。公園は夜間は門が閉められているので注意が必要。
開園時間
5月〜9月 7:30〜19:00
10月〜4月 8:30〜17:00