元和9年(1619年)松平定綱によって築かれた。 二代将軍徳川秀忠は伏見城の廃城にともない、新たに淀の地に城を築くことを松平定綱に命じ遠江国掛川より三万五千石で淀に転封となった。
和暦(西暦) | 事象 |
---|---|
寛永2年(1625年) | 遠江国掛川より松平定綱が三万五千石で入封。 |
寛永10年(1633年) | 松平定綱は美濃国大垣へ六万石で転封。 替わって下総国古河より永井尚政が十万石で入封。 |
明暦4年(1658年) | 永井尚征が家督を相続する。このとき弟尚庸に河内国内に二万石、尚右に七千石、尚春に三千二百石、尚申に三千石をそれぞれ分知し、七万三千六百石となる。 |
寛文9年(1669年) | 永井尚政は丹後国宮津へ七万三千六百石で転封。 替わって伊勢国亀山より石川憲之が六万石で入封。 |
宝永8年(1711年) | 石川総慶は備中国松山へ六万石で転封。 替わって美濃国加納より戸田光煕が六万石で入封。 |
享保2年(1717年) | 戸田光慈は志摩国鳥羽へ六万石で転封。 替わって伊勢国亀山より(大給)松平乗邑が六万石で入封。 |
享保8年(1723年) | (大給)松平乗邑は下総国佐倉へ六万石で転封。 替わって下総国佐倉より稲葉正知が十万二千石で入封。以後、稲葉家が代々続いて明治に至る。 |
淀城は京阪本線淀駅の南西にあり現在は淀城跡公園として本丸の一部が残されている。
淀城は桂川、宇治川、木津川が交わる水運の要衝に位置している。現在公園として残されているのは本丸の一部で、西から南にかけて石垣や水濠が現存し、南東隅に天守台がある。天守台は通常立ち入り禁止であるが、穴蔵式の天守台である。
公園周辺に有料駐車場が多数ある。
最寄り駅(直線距離)