天正8年(1580年)細川藤孝・忠興父子によって築かれた。 天正8年(1580年)織田信長の命によって山城国勝龍寺城より丹後に入封した細川藤孝・忠興父子は八幡山城に入り、信長に新城築城の許可を得て築城したのが宮津城の始まりで、築城に際して明智光秀の支援を受けている。しかし、細川氏によって築かれた宮津城の正確な位置や規模は詳らかではない。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で、細川忠興は徳川家康に従い会津の上杉征伐に参陣しており、留守は隠居していた細川幽斎が守っていた。石田三成の西軍が挙兵すると、丹波国福知山城主小野木重勝を大将とする西軍が丹後へ侵攻する。このとき留守を守る幽斎は諸城を破棄して自らの隠居城である田辺城にわずかな兵力を集め籠城した。この時の籠城兵五百に対して西軍は一万五千の兵であったと云われる。幽斎は田辺城に五十日余籠城の末、朝廷からの三度目の和睦勅使に応じ開城した。戦後この功により、細川氏は豊前三十九万九千五百石余で豊前国中津へ転封となった。
関ヶ原合戦後に信濃国飯田より京極高知が十二万三千二百石で丹後に入封し、当初は田辺城を居城としたが、後に宮津城を修築し居城とした。高知が亡くなると、その遺命に嫡男高広が宮津七万五千石、次男高三が田辺三万五千石、養子の高通が峰山一万三千石に分知された。
和暦(西暦) | 事象 |
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寛文6年(1666年) | 宮津京極氏三代京極高国のときに改易となり陸奥盛岡藩南部氏にお預けとなり、天領となる。 |
寛文9年(1669年) | 山城国淀より永井尚征が七万三千六百石で入封。 |
延宝8年(1680年) | 永井尚長のとき将軍家綱死去に伴う増上寺での法会で内藤忠勝に刺殺され、嫡子なく改易。後に弟直圓が大和国新庄一万石を与えられ復興している。 |
延宝9年(1681年) | 武蔵国岩槻より阿部正邦が九万九千石で入封。 |
元禄10年(1697年) | 阿部正邦は下野国宇都宮に転封。 下野国宇都宮より奥平昌成が九万石で入封。 |
享保2年(1717年) | 奥平昌成は豊前国中津へ転封。 信濃国飯山より青山幸秀が四万八千石で入封。 |
宝暦8年(1758年) | 青山幸道は美濃国八幡へ転封。 遠江国浜松より本庄資昌が七万石で入封、以後明治まで続く。 |
宮津城は現在の宮津駅北西側一帯に築かれていた。現在は完全に市街地に没し遺構はほぼ失われている。
京極氏の時代に完成した宮津城の本丸は宮津郵便局の北東側nttビル一帯で、それを取り囲むように二の丸・三の丸を配していた。大手門は市役所前の大手橋で、大手川は外堀であった。
宮津城に関連する遺構は宮津小学校に移築現存している太鼓門、大手川沿いには古い石が残り、近年河川改修に伴い城郭風の土塀が作られている。国道沿いには「宮津城三の丸跡」の案内板や「宮津城の石」、宮津警察署南側には「丹後宮津城跡」の案内板が設置されている。
本庄宗秀と本庄宗武の墓碑が桜山天満宮の境内にあり、そこに二の丸にあったという石橋が移され現存している。大久保山城を参照。
太鼓門(移築 城門)