築城年代は定かではないが稲富氏によって築かれたと云われる。 稲富氏ははじめ山田氏を称していたが、稲富保弓木城を居城としてから稲富氏を名乗るようになり、二代直時のときに丹後一色家の家臣となった。稲富流鉄砲術で著名な稲富伊賀守直家(祐直/理斎)は稲富氏四代という。
天正6年(1578年)織田信長の部将明智光秀と細川藤孝による丹後侵攻で、翌天正7年に一色義道の居城である建部山城は落城し、義道は逃亡中に中山城で自刃した。子の一色義定(義俊/義有/満信とも)は弓木城に籠もって織田軍に対抗、織田軍は攻めきれず和睦となった。この和睦により義定は細川藤孝の娘を娶り、弓木城を居城として二万石を領した。
天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れると、一色義定に怪しい動きがあることを察した細川忠興は、宮津城に義定を招いて謀殺、弓木城にも兵を送りこれを攻め落とした。
弓木城は現在の城山公園一帯に築かれている。岩滝小学校の所も城域であったが小学校建設によって遺構は消滅している。
主郭は山頂にあり、北西から南東に長く伸びた曲輪の北端部が一段小高く残っている。北下には堀切があり、その先の小高い曲輪に城山稲荷が祀られている。主郭の南端から東へ伸びた尾根に広い曲輪がある。全体的に高い切岸によって固められた城のようである。
宮津城付近に一色稲荷社があり、「一色義清自刃の処」とある。また、稲富直家(一夢)の墓が智恩寺(京都府宮津市文珠/地図)の境内に残る。
城山公園と岩滝小学校の間を走る農免道に面して城山公園の無料駐車場がある。
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