築城年代は定かではない。建武3年・延元元年(1336年)一色修理大夫範光が建部山城を築いたのが始まりとも云われるが詳らかではない。
明徳3年(1392年)明徳の乱で功のあった一色満範が丹後国守護職に任ぜられ、加佐郡の八田館を守護所とし、その背後にある建部山に詰城を築いたのが建部山城の始まりと云われる。
天正6年(1578年)織田信長の部将細川藤孝が丹後へ侵攻し、翌天正7年には一色義道の籠もる建部山城も落城し、義道は中山城へと退いた。しかし、中山城主の沼田幸兵衛が細川氏に内通したことから、義道は中山城で自刃して果てたと云われる。義道の子の一色義定は弓木城に退いて防戦し、細川氏と和睦している。
建部山城は舞鶴港(西港)と由良川の間に聳える標高315.7mの建部山山頂に築かれていた。ルビは『たてべ』あるいは『たけべ』とも読む。
丹後守護職一色氏累代の居城と云われる建部山城であるが、明治34年(1901年)に海軍舞鶴鎮守府が開庁し、舞鶴港が軍港として開かれるにあたって、これを防御するための砲台が建設され中世山城の遺構は消滅したと云われる。
現在山頂部にはレンガやコンクリート造りの砲台跡が残されており、「舞鶴要塞 建部山堡塁砲台跡」の案内板が設置されている。
登山口は東麓の喜多地区にある。国道175号線から府道601号線に入り800m程北上すると左手の団地内に登山口の案内板が見え、駐車スペースがある。(地図)
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