築城年代は定かではない。城主は一色左京大夫、沼田幸兵衛、貫幸兵衛などが伝えられる。
天正7年(1579年)織田信長の部将細川藤孝によって建部山城を攻め落とされた一色義道は中山城へと退いた。このとき城主であった沼田幸兵衛が細川氏に内通して逃げ場を失った義道が中山城で自刃して果てたと云われ、義道の子の一色義定は弓木城へ退いて細川氏と戦った。
その後、細川氏の時代に沼田勘解由左衛門清延が城主となった。慶長5年(1600年)清延の子小兵衛延元は、徳川家康率いる会津征伐軍に加わった細川忠興に従い中山城を留守にしていた。石田三成は留守にしている丹後へ軍勢を送る。留守を守っていた細川幽斎は田辺城に将兵を掻き集めこれと戦った。このとき中山城の留守居のものも中山城を焼き払って田辺城に駆けつけたという。関ヶ原合戦後、細川忠興は豊前国中津へ加増転封となり、沼田氏もこれにしたがい廃城となった。
中山城は由良川に面して南北に長く伸びた丘陵に築かれている。
南北に伸びる丘陵に曲輪と堀切を交互に設ける縄張で単純ではあるが、堀切は深く切岸も高く明瞭で割と見応えのある城郭である。しかし残念ながら一番南の曲輪群が道路改良によって消滅しており、城山八幡は麓に移されている。
城山八幡への参道が府道571号線沿いにあり、その入口に中山城の石碑と案内板が設置されている。現在この参道は途中で消滅しており山上には登ることができない。
大手と呼ばれる登り口は廃校になった由良川中学校の南側にあり、公民館の所が祥雲寺屋敷跡である。ここから丘陵北端の旧墓地へ登る道が付いている。(地図)
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