天正16年(1588年)黒田孝高によって築かれた。 伊予国今治城、讃岐国高松城と共に三大水城の一つとされる。
黒田孝高は羽柴秀吉による九州平定の後、豊前国十六万石で入封するがこれを歓迎しない在地の豪族と紛争となる。 孝高はこれを討伐するため軍を起こし諸城を落としたが、宇都宮鎮房との戦いでは苦戦し、鎮房の娘を黒田長政が娶ることで和睦した。 中津城が完成すると、宇都宮父子を招き婚約成立の宴を催すが、これは謀略でことごとく討ち取られ、軍を起こして宇都宮氏の本城を攻略した。
関ヶ原合戦後、その軍功により黒田氏は五十二万石で筑前国名島に転封となり、替わって細川忠興が三十九万九千五百石余で入封する。
忠興は中津では領内の統治が難しいため小倉城を築いて移り、嫡子忠利を中津城に置いた。 忠興が隠居すると忠利を小倉城に移し、忠興が隠居城として中津城に入り三の丸を拡張した。
寛永9年(1632年)肥後国熊本城の加藤氏が改易となると、細川氏は五十二万石で転封となり替わって播磨国龍野から小笠原長次が八万石で中津城主となる。 永禄11年(1698年)中津藩三代小笠原長胤は悪政・乱行により幕府によって改易となり、改めて長胤の弟長円が四万石に減じて中津城に封ぜられた。しかし、享保2年(1717年)小笠原氏五代長さとが幼少で亡くなったため、小笠原氏は弟長興が継いで播磨国安志に一万石で転封となった。
その後、丹後国宮津から奥平昌成が十万石で入封し、代々続いて明治に至る。
中津城は高瀬川(中津川)に面した河口に築かれている。現在は公園として整備されている。
中津城には昭和39年に奥平氏の末裔である奥平昌信氏を中心に模擬天守が建築され、歴史資料館となって公開されている。以前訪れた際には工事中であった南側の水堀と石垣が完成し整備されていた。本丸北側の石垣には黒田氏時代と細川氏時代の差が確認でき、案内がなされている。
南部小学校の所には大手門跡の石垣、西門跡の石垣などが市街地に残されている。
天守(模擬 天守)
大鞁櫓(模擬 櫓)
中津城本丸内や北側などに無料の駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)