築城年代は定かではないが文永年間(1264年〜1275年)頃に緒方大膳惟重によって築かれたのが始まりとされるが詳らかではない。
永禄12年(1569年)安芸の毛利氏が立花山城攻略のために小倉城を築き、その後、大友氏から離反して毛利方となっていた高橋鑑種が小倉城主となった。天正14年(1586年)豊臣秀吉による九州征伐の結果、森勝信(後の毛利勝信)が六万石を与えられて小倉城主となった。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で毛利勝信・勝永父子は西軍に属して改易となり、代わって丹後国田辺より細川忠興が、豊前一国と豊後国国東郡・速見郡などで三十九万九千五百石余を領して中津城に入封した。忠興は慶長7年(1602年)に大改修した小倉城へと居城を移している。
寛永9年(1632年)細川忠利のとき肥後国熊本へ転封となり、代わって播磨国明石より小笠原忠真が十五万石で入封した。同時に中津八万石で小笠原長次、豊後国杵築四万石で小笠原忠知、龍王三万七千石で忠真の弟松平重直が入封している。
慶応2年(1866年)十代小笠原忠忱がわすが三歳のとき、第二次長州征伐が起こった。このとき肥前国唐津藩主で老中であった小笠原長行が小倉口総督として幕府軍の指揮にあたったが長州軍に敗れ、小倉藩は小倉城を焼き払って香春へ退き、以後は香春に藩庁を構えて香春藩となった。
小倉城は小倉駅の南西、北九州市役所の北西に築かれており、現在は勝山公園として整備されている。
コンクリートで復興された天守は破風が付いており、外観は大きく異なっている。この天守のある本丸を中心に南に松ノ丸、北の八坂神社が北の丸がある。市街地に埋もれかけているものの、本丸から北側は水堀や石垣なども良く残っている。
天守(復興 天守)