応永元年(1394年)木付頼直によって築かれたと云われる。 木付氏四代木付頼直は竹ノ尾城を居城としていたが、海と断崖に囲まれた台地に築城し居城を移した。
天正15年(1587年)島津義弘の部将新納武蔵守の攻撃を受けたが落城せず、豊臣秀吉の援軍が到着することを受け、撤退する島津軍を木付鎮直が追撃して大打撃を与えた。
文録2年(1593年)大友義統は文禄の役で鳳山城を破棄して敵前逃亡した罪により改易された。義統に従って出陣していた木付統直は帰国途中に自刃し、それを聞いた父鎮直も木付城内で自刃して果てた。これによって木付氏は十七代で滅亡した。
文禄4(1595年)後に豊臣秀吉の五奉行の一人となる前田玄以が木付を賜ったが、翌文禄5年(1596年)には杉原長房が入封した。しかし、長房も慶長3年(1598年)に但馬国豊岡へ転封となり、慶長4年(1599年)丹後国田辺城十二万石の大名であった細川忠興に木付六万石が加増され、十八万石の大名となった。
細川忠興は家臣の松井佐渡守康之と有吉四郎左衛門立行を木付城代として置いた。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で、旧領主大友義統は西軍に属して旧領回復を図ろうと豊後に上陸すると、吉弘統幸に二百騎を与えて松井・有吉の籠もる木付城に攻め寄せた。本丸のみとなるまで攻め込まれたが、黒田如水の援軍が駆けつけると吉弘統幸は別府の石垣原へ撤退し、ここで大友氏と黒田氏による石垣原合戦が行われた。
関ヶ原合戦後、細川忠興が三十九万九千五百石余で豊前一国と豊後の一部が与えられ中津に入封する。 寛永9年(1632年)細川忠利のとき豊前国小倉から肥後国熊本へ転封となり、代わって小笠原忠真が小倉に入封した。忠真は弟小笠原忠知に木付四万石与え大名に列すると、ここに初めて杵築藩となった。
正保2年(1645年)小笠原忠知は三河国吉田に転封となり、代わって高田より(能見)松平英親が三万二千石で入封、以後代々松平氏が続いて明治に至る。
木付の地名が杵築となったのは正徳2年(1712年)将軍徳川家宣から松平重休に下賜した朱印文に「豊後国杵築領」と記されていたため、幕府に伺いを立てたうえで杵築と書くようになったという。
杵築城は八坂川河口の通称「城の鼻」と呼ばれる台地に築かれていた。 木付氏が築いたのが現在模擬天守が建っている木付城(台山城)部分であるが、江戸時代の杵築城は北麓の部分が中心となり、現在杵築中学校の校庭となっている辺りに藩主の御殿があった。現在城山公園に登る車道の入口にあるのが水堀の名残である。
西の台地の上にある杵築小学校の辺りには城下町の名残があり、天明8年(1788年)松平親賢によって開かれた藩校「学習館」の藩校の門が現存している。
御成門(移築 城門)
天守(模擬 天守)
西側から車道があり山上の城山公園に無料の駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)