築城年代は定かではないが室町時代に奈多鑑基によって築かれたと云われる。 奈多氏は奈多八幡宮の大宮司で、宇佐神宮の大宮司であった宇佐氏の分流と云われる。
奈多秀基は奈多八幡の天台宗であった神宮寺を廃し、密室禅師を招いて禅宗である報恩寺を建立した。この報恩寺の背後に奈多城と呼ばれる館城が築かれた。
奈多鑑基の娘が大友宗麟の正室となった奈多夫人である。鑑基は永禄12年(1569年)筑前に出陣中に没し、家督は鎮基が継いだ。奈多鎮基には子が無く、京の公家久我家から万福丸を養子に迎えていたが、天正15年(1587年)奈多鎮基が没すると万福丸は京へ帰ってしまい奈多家は断絶した。
奈多城は奈多氏の菩提寺である報恩寺の北背後の丘陵に築かれおり、現在は畑になっている。
奈多城はいわゆる館城で広大な台地の上に築かれており、西側に三段程の平段と土塁がある。南と西に堀跡が残る。