築城年代は定かではないが建武年間(1334年〜1338年)に吉弘正堅によって築かれたと云われる。 吉弘氏は大友氏の支流田原氏の分かれで、田原氏三代直貞の二男又次郎正堅が武蔵郷吉広に住んで吉弘氏の祖となった。
吉弘氏は七代吉弘親信あるいは八代氏直のとき屋山城を築いて居城を移している。
吉広城は「吉弘楽」で有名な楽庭八幡神社の南に聳える標高182mの山に築かれている。
吉広城はほぼ単郭の山城で、最高所を削平し、北に向かって帯曲輪状に小さな段があるものの規模は小さい。この主郭部の周囲は切岸によって一段小高くし、南や北東側は横堀状、西は帯曲輪のような地形になっている。
東端から楽庭八幡神社の方に向かって伸びる尾根に堀底道があり、この先に吉弘氏の館があったという。途中まで降りてみたが堀底道は途中で薮に埋もれている。
楽庭八幡神社のすぐ南に吉弘氏の菩提寺である永泰寺、そのすぐ隣の民家の築山となった部分に吉弘氏初代正堅から七代親信までの墓(吉弘氏七代の墓)がある。
楽庭八幡神社前の県道55号線を神社から西へ進んでいくと吉弘城入口の道標が出ている。ここから林道が吉弘城主郭の南背後まで通じており、終点に駐車場がある。