築城年代は定かではないが天文13年(1544年)頃に田原氏によって築かれたと云われる。
天文13年(1544年)の大洪水によって飯塚城や伊予野館などが損壊したため、新たに亀城を築いて館城としたという。
亀城は城崎中学校の南に聳える標高130m程の丘陵に築かれている。現在南東部には亀城神社が鎮座し町指定史跡となっている。
亀城は東西150m程もある広大な曲輪を主郭とし、西側を二条の堀切で遮断している。土塁は西の堀切に面した所に少し残されている程度である。周囲には石垣が散見できるが、これは後世の墓地や畑による造成の可能性もある。
主郭の西にある二条の堀切の間は南は幅広の土塁程度であるが、北はやや広く曲輪となっており、西に突き出すように立派な櫓台がある。この櫓台は「オテンス」と呼ばれているようで「天守/天主」が転訛したものかもしれない。この櫓台に面する空堀は幅広く、櫓台が張り出して横矢になっている。
主郭一帯を取り巻くように帯曲輪が巡っているが、墓地や畑による造成など城郭遺構の範囲は難しい。
現在南東の鳥居から参道が斜めに入り、南から直線的に登った道の正面に石垣があり、一度左へ曲がって石垣上の通路を経て登るルートになっている。この参道は神社の参道としては不自然であり、折れを設けて登るルートは登城路の名残りと思われる。この通路に面して帯曲輪には土塁も付いている。
城山の南東麓に鳥居が見え、ここが参道入口。(地図)