弘長元年(1261年)富来忠文あるいは正安元年(1299年)富来忠政によって築かれたと云われる。
富来氏は代々大友氏に仕えるが18代実直、実信父子は耳川合戦で戦死、19代鎮久は朝鮮の役で戦死するなど衰退した。
文禄2年(1593年)豊臣秀吉は大友義統を改易とすると、垣見家純に二万石を与えて城主とした。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で垣見家純は西軍に属して美濃国大垣城を守っていた。このとき、豊後国では石垣原合戦で大友氏を下した黒田孝高がその勢いに乗じて富来城を包囲したが、留守を守る垣見理右衛門は城を固く守り落城しなかった。しかし、家純が守っていた大垣城は東軍に内応した諸将が出て落城、家純も討死した。この急報を聞いた理右衛門は開城降伏した。
富来城は富来川河口の富来港に面した平地に築かれていた。
旧富来中学校(廃校)の南側に小高くなった城山子供公園があり、ここに案内板などが設置されている。南側には一部石垣が残っており、垣見氏の時代に整備されたようである。この公園の隣には堀跡と思われる窪地も残されている。