築城年代は定かではない。明応9年(1500年)竹腰彦五郎尚綱によって築かれた牛屋城が始まりともされるが、一般的には天文4年(1535年)宮川安定によって築かれたのを始まりとする。
天文13年(1544年)尾張の織田信秀が大垣城を攻め落とし、織田信辰を大垣城主とする。しかし天文16年(1547年)には斎藤道三の軍勢が攻略して竹腰尚光を城主とする。
永禄2年(1559年)美濃三人衆の一人氏家直元(卜全)が大垣城主となり、永禄10年(1567年)には織田信長の家臣となる。元亀2年(1571年)長島一向一揆との戦いで討死した後は、嫡男直昌が継ぐ。天正11年(1583年)直昌が没して弟行広が家督を継ぐと三塚へ転封となり、池田恒興が大垣城主となる。
池田恒興は天正12年(1584年)小牧長久手合戦で秀吉方として参加したが、この戦いで討死、家督を継いだ池田輝政は岐阜城へ転封となる。
池田輝政に替わって羽柴秀次(豊臣秀次)が大垣城主となるがすぐに近江に転封、替わって羽柴秀長が大垣城主となるも、天正13年(1585年)には大和国郡山へ移ったため、在城はわずかであった。
次に大垣城主となったのは加藤光泰であるが、これもわずかにして一柳直末が天正17年(1589年)まで大垣城主となった。
天正17年(1589年)には羽柴秀勝が大垣城主となるがわずか一年で岐阜城へ転封、天正18年(1590年)には伊藤盛景(祐盛)が大垣城主となり、このときはじめて天守があげられた。盛景が没すると嫡男盛正が家督を継いだ。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では石田三成の要請によって大垣城を明け渡し今村城に移った。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長6年(1601年) | 上総国鳴渡から石川康通が五万石で入封。 |
元和2年(616年) | 石川忠総のとき豊後国日田へ転封、かわって下総国関宿から(久松)松平忠良が五万石で入封。 |
寛永元年(1624年) | 松平憲良のとき信濃国小諸に転封、丹波国福知山から岡部長盛が5万石で入封。 |
寛永10年(1633年) | 岡部宣勝のとき播磨国龍野に転封、山城国淀から(久松)松平定綱が6万石で入封。 |
寛永12年(1635年) | 岡部宣勝は伊勢国桑名に転封、摂津国尼崎から戸田氏鉄が10万石で入封、以降戸田氏が代々続いて明治に至る。 |
大垣城は昭和20年まで四層の天守が聳えていたが戦災によって焼失し、現在はrc構造で概観復元されている。現在城跡にある構造物は同じく戦後に復元された艮隅櫓、乾隅櫓、西櫓門とかつての内柳門が東門として移築されている。この旧内柳門が本来とは別の位置にあるものの、城内に残る唯一の現存建物である。
大垣城の縄張は、南北に本丸、二の丸が並び、その周囲に三の丸(天神丸、竹の丸を含む)を配していた。北の本丸、南の二の丸は唯一木橋で繋がるのみで、現在「鉄門跡」の看板があるところが二の丸と繋がっていた本丸の門跡である。
本丸には天守をはじめ三重櫓一基、二重櫓三基があり、門は二の丸と繋がる鉄門、北西側に内堀と繋がる水ノ手門があるのみで、現在存在している西門、東門は存在していなかった。
本丸と二の丸を巡る水堀はかつて30m程の幅があったというが、その殆どは埋め立てられわずかに水路などで残っているにすぎない。どうも堀がないと城としては寂しいが、北や西を流れる水門川はかつての外堀である。
本丸乾門(移築 城門)
清水口御門(移築 城門)
門(移築 城門)
内柳門(移築 櫓門)
天守(復元 天守)
乾隅櫓(復元 櫓)
艮隅櫓(復興 櫓)
西門(模擬 櫓門)
周囲の有料駐車場を利用する。大垣城と大垣市郷土館の共通券が150円と安く、郷土館には大垣城の模型や戸田氏関連の展示が多くあるのでお勧め。
以下、訪問当時のものであり、変更されている可能性があります。
入場時間 | 午前9時-午後5時(入城は4時30分)まで |
休館日 | 年末年始(12/29-1/3) |
料金 | 大人100円 高校生以下無料 |