青野藩稲葉正休の一万二千石の陣屋である。 稲葉正休は下野国真岡藩主稲葉正成の子稲葉正吉が父で、明暦2年(1656年)父正吉が男色の縺れから家臣に殺害されるという事情にも関わらず、美濃国不破郡青野五千石の知行を相続した。
天和元年(1681年)近習となって二千石を加増、翌天和2年(1682年)若年寄に昇進して五千石の加増を受け一万二千石となって諸候に列した。このとき、青野に構えられた陣屋が青野城である。しかし、わずか二年後の貞享元年(1684年)江戸城中にて従兄弟でもある大老堀田正俊を刺殺し、その場に居合わせた老中大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌らによって討ちとられ、青野藩は一代わずか二年にして廃藩となった。
青野城のあった正確な位置はわからないが「稲葉石見守正休公屋敷跡」の碑が水田の中に建っており、この辺りが碑文にある字本丸であろうか。碑文には「その屋敷跡は青野城と呼ばれ此の附近一帯に在り大正初期迄は周囲に堀を巡らした、本丸の字名と共に静かに往時をしのばせていた。今回石見守が遺したと謂はれる東浦溜池が 廃され大垣市営「青野霊園」が建設されるを 記念し石見守の遺徳を偲んで此の碑を建立す」とある。今回この青野霊園は訪れていないのだが、この石碑のある場所から西の千手寺、永福寺付近にあるようだ。
石碑の裏には墓碑があり、貞享元の年号が刻まれていることから稲葉正休の墓碑と思われる。
青墓小学校の北にある延長寺の山門はこの青野城の城門と伝えられている。
表門(移築 城門)
石碑は県道216号線ら県道228号線に入り南西へ進むと、県道は南へ曲がって南進する。県道を南に曲がって200m程南進し東側を見ると水田の中に小屋があり、その脇に石碑があるのが見える。千手寺・永福寺のある道の一本南側の道である。
最寄り駅(直線距離)