慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において東軍に属した山内一豊が陣を構えた。
山内一豊は遠江国掛川城五万石の大名で、「小山評定」ではいち早く自分の居城である掛川城を家康に提供することを申し出、家康の歓心を得ている。関ヶ原合戦では南宮山に陣取った毛利秀元に備えていた。合戦後は土佐一国高知城二十万石の大名となった。
山内一豊陣は旧中山道(国道21号線と関ヶ原バイパスの間)の道沿いにある。案内板のみでしかも松に隠れ気味であるが、徳川家康最初の陣から北側の旧中山道へ入り、東へ進んでいくと「関ヶ原宿」がある。そこから100m程東へ進むと集落が見えてくるが、その手前にある広い空き地の入口に案内板が建っている。