築城年代は定かではない。南北朝時代に南朝方に属した大高坂松王丸が居城としていた大高坂城がその前身とされる。
天正16年(1588年)長宗我部元親は大高坂城を築いて岡豊城から居城を移したが、水害などによって城下町を整備できず、天正19年(1591年)には浦戸城へ再移転している。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦で長宗我部盛親は西軍に属して改易となり、替わって遠江国掛川城から山内一豊が土佐一国二十四万石で入封した。一豊は浦戸城へ入城したが城下町を整備するには手狭であったため、大高坂の地を選んで築城した。
慶長8年(1603年)本丸・二ノ丸が完成すると河中山城(こうちやまじょう)と名付けられ、一豊は浦戸城より移った。しかし、度々水害に悩まされると二代山内忠義は「河中」の字を嫌い、「高智」と改めさらに高知城と改められた。
慶長16年(1611年)三ノ丸も完成したが、享保12年(1727年)に火災により追手門以外ほぼ全ての建物が失われ、現在の天守は寛延元年(1748年)、本丸御殿も享和年間(1801年〜1804年)の再建である。
高知城は高知市の中心部、高知県庁の背後にある丘陵に築かれた平山城で、天守など本丸の建物が全て現存する唯一の城郭で、現存する追手門と天守を一枚の写真に収めることができる。
高知城は本丸と二の丸が南北に並び、その谷間を詰門で繋ぐ。二ノ丸東下に広い三ノ丸があり、桝形の鉄門がある。三ノ丸には長宗我部期のものと推測されている石垣の展示がある。その下方は、東に杉ノ段、西に西ノ丸、南の県庁のある広大な平地は下屋敷・御屋敷(表御殿)と呼ばれている。
天守は四重六階望楼型で、本丸御殿である懐徳館と繋がる。本丸には西多聞櫓、東多聞櫓、二ノ丸方面に廊下門、太鼓櫓側に黒鉄門がある。廊下門は詰門と繋がり、詰門の二階は本丸と二の丸を結ぶ橋となり、その脇に家老・中老・平侍の溜間が設けられている。一階は門で、東西を行き来することができる。
天守(現存 天守)
懐徳館(現存 御殿)
追手門(現存 櫓門)
詰門(現存 橋)
黒鉄門(現存 櫓門)
東多聞(現存 多聞櫓)
西多聞(現存 多聞櫓)
納戸蔵(現存 御殿)
廊下門(現存 櫓門)