永正9年(1512年)朝比奈泰能によって築かれた。今川氏が東遠江支配のため朝比奈氏に掛川古城を築かせ、さらにこの地に新城を築かせたのが始まりとされる。
永録11年(1568年)朝比奈泰朝は、武田信玄によって駿府城から追われた今川氏真を掛川城へ迎えた。永録12年(1569年)徳川家康によって攻められ、約半年の間籠城したが和睦開城となり、今川氏真は北条氏を頼って落ちていった。開城後、徳川氏は石川家成・康通父子を城将とし武田氏に備えた。
天正18年(1590年)小田原北条氏が滅亡すると、徳川家康は関東に移封となり、石川康通もこれに従って上総国成東へ移り二万石が与えられた。
これに替わって山内一豊が近江国長浜から五万石で入封し近世城郭として改修した。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長6年(1601年) | 松平定勝は下総国小南より三万石で入封。 |
慶長12年(1607年) |
松平定勝は山城国伏見城代となる。 松平定行が父定勝より三万石を譲られ入封。 |
元和3年(1617年) |
松平定行は伊勢国桑名に移り、父定勝の所領と統合。 安藤直次が武蔵国より二万石で入封。 |
元和5年(1619年) |
安藤直次は紀伊国田辺に転封。 松平定綱が常陸国下妻より三万石で入封。 |
寛永2年(1625年) |
松平定綱は山城国淀へ転封。 朝倉宣正が駿河国より二万六千石で入封。 |
寛永9年(1632年) | 朝倉宣正は除封。 |
寛永10年(1633年) | 青山幸成が常陸国より二万六千石で入封。 |
寛永11年(1634年) | 青山幸成は三万三千石に加増。 |
寛永12年(1635年) |
青山幸成は摂津国尼崎へ転封。 松平忠重が駿河国田中より四万石で入封。 |
寛永16年(1639年) |
松平忠倶は信濃国飯山へ転封。 本多忠義が七万石で入封。 |
寛永21年(1644年) |
本多忠義は越後国村上に転封。 松平忠晴が駿河国田中より三万石で入封。 |
正保5年(1648年) | 松平忠晴は丹波国亀山へ転封。 北条氏重が駿河国田中より三万石で入封。 |
万治元年(1658年) | 北条氏重は除封。 |
万治2年(1659年) | 井伊直好が三河国西尾より三万五千石で入封。 |
宝永2年(1705年) | 井伊直朝は除封。 井伊直矩が二万石にて再封され、越後国与板へ転封。 |
宝永3年(1706年) | 松平忠喬が信濃国飯山より四万石で入封。 |
宝永8年(1711年) |
松平忠喬は摂津国尼崎へ転封。 小笠原長煕が武蔵国岩槻より六万石で入封。 |
延享3年(1746年) | 小笠原長恭は陸奥国棚倉に転封。 太田資俊が上野国館林より五万石で入封。 |
慶応4年(1868年) | 太田資美は上総国柴山に転封。 |
掛川城はjr掛川駅の北方にある比高30m程の小山に築かれている。現在は県指定史跡として公園整備されており、木造によって再建された天守が聳えている。
掛川城の天守は本丸ではなく一段小高くなった天守丸に築かれている。天守は安政元年(1854年)の大地震によって損壊し、以後再建されることはなかったが、平成6年に木造で再建された。本丸は天守丸の一段下にあり、ここもそれほど広くない。二の丸には二の丸御殿が現存しており、全国的にも数が少なく貴重な遺構である。
建物は木造再建の天守と大手門、現存する二の丸御殿、三の丸から移築された太鼓櫓などがある。
二の丸御殿(現存 御殿)
太鼓櫓(移築 櫓)
大手門番所(移築 番所)
嘉永7年(1854年)の大地震で倒壊、安政6年(1859年)再建蕗(富貴)の門(移築 城門)
大手二の門(移築 城門)
城門(移築 城門)
天守(復元 天守)
大手門(復元 櫓門)
嘉永7年(1854年)の大地震で倒壊、安政5年(1858年)再建