築城年代は定かではないが本庄氏によって築かれたと云われる。 本庄氏は桓武平氏秩父氏の末裔で、小泉庄の地頭となり下向した。本庄氏の祖は秩父李長の子、秩父行長で、弟為長は色部氏の祖である。
本庄城の築城は定かではないが、永正5年(1508年)に家督を継いだ本庄房長の時には居城として本庄城があった。
天文8年(1539年)本庄房長が出羽の大宝寺に出兵している隙に、実弟である小川長資と大葉沢城主鮎川清長によって本庄城は乗っ取られた。急を聞いた房長は急ぎ兵を引き返す途中に急死した。房長が急死したすぐ後に生まれたのが、千代猪丸こと本庄繁長で、天文20年(1551年)父の十三回忌で、自身の後見人として実権を握っていた小川長資を攻めて自刃させた。
永禄元年(1558年)本庄繁長は上杉謙信に降り、揚北衆として各地を転戦し武功を挙げた。しかし、永禄11年(1568年)繁長は出羽国尾浦城主武藤義増と結んで武田信玄と通じて挙兵した。一年余りにわたって上杉氏と戦ったが、武田氏と同盟を結んで上杉氏の背後を牽制していた北条氏が、武田信玄が今川氏を攻めたことを知り上杉氏と和議を結ぼうとするなど次第に孤立し、会津の葦名盛氏などの仲介により繁長も謙信に和議を求めた。嫡男顕長を人質として差し出すことで和議が整い、繁長は本庄城を明け渡して猿沢城に隠居したという。
天正6年(1578年)上杉謙信が急死し、御館の乱が勃発すると繁長は上杉景勝、嫡男顕長は上杉景虎と父子で分かれた。御館が落城すると顕長は廃嫡という条件で助命されている。
天正15年(1587年)繁長の次男義勝が出羽国尾浦城主武藤義興の養子となったが、東禅寺氏や最上氏によって攻められ、義興は自刃、義勝は城を脱して繁長のもとに戻った。翌天正16年(1588年)繁長・義勝父子は庄内に侵攻し、出羽国尾浦城を攻め落として武藤氏(大宝寺氏)を再興した。
天正19年(1591年)繁長・義勝父子は庄内の藤島一揆を煽動した疑いで処罰され、大和国に蟄居を命ぜられた。文禄元年(1592年)繁長は朝鮮の役の参陣を願い出て秀吉に許され、上杉景勝に従って朝鮮に渡った。慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封に伴い、繁長も陸奥国守山城代として移った。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長3年(1598年) | 村上周防守頼勝が加賀国小松から九万石で入封。 |
元和4年(1619年) |
村上忠勝のとき除封となり、捨扶持三百石を与えられて丹波国篠山に流罪となり松平康重に預けられた。 堀直寄が長岡より十万石で入封。 |
寛永15年(1638年) | 堀直寄が没すると、堀直定が家督を継いだが、加増された三万石は次男堀直時に分知され安田藩となった。 |
寛永19年(1642年) | 堀直定がわずか七歳で没し除封。 |
寛永21年(1644年) | 本多忠義が遠江国掛川より十万石で入封。 |
慶安2年(1649年) | 本多忠義は陸奥国白河に転封。 松平直矩が播磨国姫路より十五万石で入封。 |
寛文7年(1667年) |
松平直矩は播磨国姫路へ転封。 榊原政倫が播磨国姫路より十五万石で入封。 天守が落雷により焼失。 |
宝永元年(1704年) |
榊原政邦は播磨国姫路に転封。 本多忠孝が播磨国姫路より十五万石で入封。 |
宝永6年(1709年) | 忠孝が嗣子なく没し、改易となる所を、本多忠勝以来の家柄であることから一族の本多忠良が五万石に減封され相続した。 |
宝永7年(1710年) |
本多忠良は三河国刈谷へ転封。 松平輝貞が上野国高崎より七万二千石で入封。 |
享保2年(1717年) |
松平輝貞は上野国高崎へ転封。 間部詮房が上野国高崎より五万石で入封。 |
享保5年(1720年) |
間部詮房は越前国鯖江へ転封。 内藤弌信が五万九十石で入封。以後内藤氏が続き明治に至る。 |