築城年代は定かではないが本庄氏によって築かれたと云われる。
永禄元年(1558年)本庄城主本庄繁長は上杉謙信に降り、揚北衆として各地を転戦し武功を挙げた。しかし、永禄11年(1568年)本庄繁長は武田信玄に通じ、出羽国尾浦城主武藤義増とともに上杉氏に反旗を翻した。この時、居城である本庄城とともに本庄氏の要害として猿沢が登場する。本庄氏は一年余りにわたって上杉氏に抵抗したが葦名盛氏の仲介により降伏、繁長は嫡子顕長を人質として差し出し、自身も本庄城を明け渡して猿沢城に隠居して雨順斎と号した。
猿沢城は道の駅「朝日」の北東側にある猿沢集落の背後、前ノ川と薬師川との間の山に築かれている。 猿沢城は「猿沢館」・「福館」・「サルクロ」などから成る城である。
猿沢館は山裾の神明宮の背後にあり、沢を挟んで東西両側に館跡が残る。東側は神明宮の北側に位置し、南下に横堀が巡り一段高くなって館跡が拡がる。広大な敷地で西側を除く三方に土塁が残り、山城に通じる北側にも堀が設けてある。西側の館は東側より一段低く、南側から西側にかけて土塁と堀が残り、南側中央付近が開口していて土橋状になっている。
福館は居館部から北へ登った標高120m程の山上にあり、中央が一番低く、西、東と高くなる。東側が主郭部と見られ、同心円状に帯曲輪が二段付いている。中央南側は両側から土塁が伸びて中央が虎口になっている。そこから南へ降るともう一段曲輪があり、その南側斜面に畝状竪堀群がある。
サルクロは福館から尾根伝いに登った標高233mに築かれている。 途中はいくつかの堀切を越えて登り、若干削平された尾根があるが基本には細尾根が続く。山頂はやや広く、南東と北西側にそれぞれ食い違いの虎口が残っている。
猿沢集落内にある神明宮が目印でその前に駐車できる。居館部はその背後にあり、居館部の北側から谷を渡って東側の山に取り付くと踏み跡が福館へ伸びている。
最寄り駅(直線距離)