築城年代は定かではないが鮎川氏によって築かれたと云われる。 鮎川氏は本庄城主本庄氏の庶流である。
天文8年(1539年)鮎川清長は、同族の小川長資とともに本庄城の本庄房長を攻めて出羽国へ追い落とすなど、その地位を高めたが、平林城主色部氏の仲介により和平となった。
永禄11年(1568年)房長の子、本庄繁長は甲斐の武田信玄と通じて上杉謙信に叛き挙兵した。鮎川清長は上杉謙信の要請を受けて本庄氏を攻めたが、本庄繁長もまた大葉沢城を攻めるなど激しく抵抗した。結局本庄氏は葦名盛氏の仲介で嫡子を人質として差し出すことで和議となった。
その後も鮎川氏が続いたが、慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封にともない、鮎川氏も会津に移り廃城となった。
大葉沢城は、普済寺の南背後にある西に向かって舌状に伸びた標高90m程の小山に築かれており、雷神社のある西曲輪群と、東曲輪群からなる。
西曲輪群は雷神社が鎮座する東西に細長い曲輪を主郭とし、堀切で区画された曲輪が東に一郭、西に二郭ある。西端の曲輪は背後を二重堀切、西から南側に横堀が巡っている。 この西曲輪群の南山腹に「ゴボウ峰」と呼ばれる畝状竪堀群が一面ギッシリと覆われている。この畝状竪堀群がある側面は大半が傾斜の少ない緩斜面である。
一方最高所にある東曲輪群は周囲の大半を土塁が巡り、南西や北東に虎口がある。特に北東の虎口は枡形となっている。この曲輪には東側面に若干の畝状竪堀群がある他は竪堀がない。
大場沢集落に行くと看板が出ている。普済寺を目指していくと大葉沢公民館があり、ここに車を駐めることができる。城山へはここから道標があり、また普済寺からも遊歩道が続いている。
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