至徳元年・元中元年(1384年)蘆名直盛によって築かれたと云われる。 蘆名氏は源頼朝の家臣三浦氏の一族で三浦郡蘆名の地から蘆名を称した。
文治5年(1189年)藤原泰衡の討伐に功があり恩賞として会津を得た。蘆名氏は天正17年(1589年)20代義広の時、伊達政宗によって会津の地を追われた。
会津を得た伊達氏であったが小田原合戦が終ると豊臣秀吉によって会津の地は蒲生氏郷が所領する事となった。 文禄元年(1592年)氏郷は黒川城を大改修するとともに黒川の地を若松と改名し城を鶴ヶ城とした。 氏郷が京都で病没すると秀行が継いだが、まだ幼く奥州の抑えとしては都合が悪いとして慶長3年(1598年)下野国宇都宮に移封となり替わって越後国春日山から上杉景勝が入封する。 しかし、上杉氏は関ヶ原合戦で西軍に組みしたことで出羽国米沢に移封となり、再び蒲生秀行が入封した。
寛永4年(1627年)秀行の子忠郷が嫡子なく病没し蒲生家は断絶となるが、忠郷の母が徳川家康の娘正清院振姫であったことから、出羽国上山城主の弟忠知が蒲生家の家督を継いで伊予国松山二十四万石の大名に取り立てられた。
替わって伊予国松山から加藤嘉明が四十万石で入封するものの、二代明成の時にお家騒動で領地を返上、石見国吉永に一万石に減封となった。
最後に出羽国山形から保科正之が二十三万石で入封し、三代正容の時に松平姓に改姓してして代々続いた。慶応4年(1868年)戊辰戦争に敗れた会津藩松平氏は所領を没収され、藩主松平容保は謹慎処分となった。翌明治2年(1869年)容保の嫡男容大をもって家名再興を許され、陸奥国三戸・上北・下北三郡および二戸郡の一部で三万石が与えられ斗南藩となった。