慶応4年(1868年)戊辰戦争に敗れた会津藩松平氏は所領を没収され、藩主松平容保は謹慎処分となった。一度家名が途絶えた会津松平氏であったが、翌明治2年(1869年)容保の嫡男容大をもって家名再興を許され、陸奥国三戸・上北・下北三郡および二戸郡の一部で三万石が与えられた。
明治4年(1871年)二月、数えわずか三歳の容大は家臣に抱かれて田名部へ入り、円通寺を仮の庁舎として斗南藩となった。しかし同年七月に廃藩置県を迎え、斗南藩はわずか数ヶ月であった。
斗南藩は現在の円通寺に藩庁が置かれた。円通寺には現在でも藩主松平容大公愛玩の布袋像が保存され、境内には明治33年に容大公による招魂碑が建てられている。
円通寺の南西隣にある徳玄寺も斗南藩縁の地で、藩主容大公が食事や遊び場となり、重臣の会議もここで行われたという。
むつ市近隣には「斗南藩史蹟地」として案内板が設置されているところがいくつかある。
大湊駅の南東(地図)には「斗南藩上陸の地」がある。明治2年に旧会津藩士の一段が新潟から海路この地へ上陸したものである。
むつ市の市街地から県道6号線を東進すると「斗南ヶ丘市街地跡」(地図)がある。この地は斗南藩士が開拓の拠点として街道や土塀で区画した屋敷地を造った所であるが、過酷な風雪によって人々が転出していき荒廃していった。ここにはわずかに土塀跡が残されている。
「斗南ヶ丘市街地跡」からさらに県道を東進すると「旧斗南藩墳墓の地」(地図)がある。ここには斗南藩所縁の人々の墓が残されている。