築城年代は定かではない。
南北朝時代はじめに南部氏の家臣赤星五郎が居城とした。康正2年〜3年(1456年〜1457年)赤星五郎の子、赤星三郎有重のとき、蛎崎城主蛎崎蔵人信純が南部氏に叛いたため南部(八戸)政経によって攻められ田名部館は落城、田名部は八戸南部の所領となり新田盛政が城代となった。
その後、九州の菊池一族で越中国阿尾城主であった菊池武勝の弟菊池豊後守正義が南部氏を頼ってきた。正義は鶴ヶ崎順法寺城に居住したが、その子正興は田名部館を修築して居館とした。
江戸時代になると南部氏領として田名部代官が常念寺に置かれたが、寛文元(1661年)代官所はこの田名部館跡に移され、以後は田名部代官所として続いた。
田名部館は南東へ伸びた丘陵の南端に築かれており、現在は代官山公園として整備されている。
代官山は近世南部氏の代官所が置かれたことにちなんで名付けられた名称で、明治以降は学校や図書館などが建設され、今現在の公園に至っている。そのため、公園内に遺構を確認することは困難である。かつては北西側に二重の堀があったようで、今は宅地になっている。
代官山公園内に駐車場がある。
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