築城年代は定かではないが宇都宮氏によって築かれた。 鎌倉時代には館として機能していたが南北朝時代に城郭として拡張されていく。 戦国時代には一時多気山城を居城としていたが、豊臣秀吉によって関東、東北が統一されると再び宇都宮城を居城とした。
宇都宮氏は慶長2年(1597年)22代国綱の時、突然豊臣秀吉によって改易された。 改易の理由は諸説あり定かではないが、国綱の養子問題について、内乱を引き起こし秀吉の命に背いたことが要因とされる。
宇都宮氏の後は城代として浅野長政が入城するがすぐに会津若松から蒲生秀行が入封する。 蒲生秀行は4年後に会津若松に復帰して替わって大河内氏、奥平氏と替わる。
元和5年(1619年)本多正純が十五万石で入封し近世城郭へと大改修された。 元和8年(1622年)本多氏は有名な「宇都宮城釣天井事件」の俗説が巻き起こる程、突然の改易となり、正純は出羽国本荘に流された。その後は譜代大名が目まぐるしく入れ替わる。
・元和8年(1622年)下総国古河より奥平忠昌が十一万石で入封、寛文8年(1668年)昌能の時、出羽国山形に転封。
・寛文8年(1668年)出羽国山形より(奥平)松平忠弘が十五万石で入封、天和元年(1681年)陸奥国白河へ転封。
・天和元年(1681年)陸奥国白河より本多忠平が十一万石で入封、貞享2年(1685年)大和国郡山へ転封。
・貞享2年(1685年)出羽国山形より奥平昌章が十万石で入封、元禄10年(1697年)昌成の時、丹後国宮津へ転封。
・元禄10年(1697年)丹後国宮津より阿部正邦が十万石で入封、宝永7年(1710年)備後国福山へ転封。
・宝永7年(1710年)越後国高田より戸田忠真が七万八千石で入封、寛延2年(1749年)忠盈の時、肥前国島原へ転封。
・寛延2年(1749年)肥前国島原より松平忠祗が六万六千石で入封、安永3年(1774年)忠恕の時、肥前国島原へ転封。
・安永3年(1774年)肥前国島原より戸田忠盈が七万八千石で入封、以後明治に至る。
2006年にはじめて訪れた時は工事中であったが、今回は完成していた。噂には聞いていたが、実際見てみると何ともいえない微妙な景色。半円状に土塁をコンクリートで復元して、エレベータで土塁の上に登れるようになっている。
パンフレットには「御成御殿と門の復元を目指します。」と書かれているので、これから先も工事が続くのであろうか。
清明台(復興 櫓)
富士見櫓(復興 櫓)