元和4年(1618年)松倉重政によって築かれた。 鎌倉時代から島原一帯を領していた有馬氏が慶長19年(1614年)日向国県へ転封となると、大和国五條より松倉重政が入封する。 重政は有馬氏の居城日野江城に入ったが、すぐに島原城の築城を開始した。 築城に際しては原城の石垣を崩して運ばせるなど七年もの歳月を費した。
五重五階の天守と49基もの隅櫓を持ち約四万石という石高に不相応な規模を誇る。 寛永7年(1630年)には重政が近くの小浜温泉にて暗殺されると勝家が継いだが、 この勝家のときに島原の乱が起こり、責任を問われた勝家は津山藩にお預けののち斬首となった。
和暦(西暦) | 事象 |
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元和2年(1616年) | 大和国五條より松倉重政が四万石で入封。 |
寛永15年(1638年) | 松倉勝家のとき島原の乱により除封。 遠江国浜松より高力忠房が四万石で入封。 |
寛文8年(1668年) | 高力隆長のとき除封。 |
寛文9年(1669年) | 丹波国福知山より(深溝)松平忠房が六万五千石で入封。 |
寛延2年(1749年) | (深溝)松平忠祇は下野国宇都宮へ転封。 下野国宇都宮より戸田忠盈が七万七千石で入封。 |
安永3年(1774年) | 戸田忠寛は下野国宇都宮へ転封。 下野国宇都宮より(深溝)松平忠恕が六万五千石で入封し、以後明治に至る。 |
島原城は島原市の中央に築かれた連郭式平城である。 南北に本丸と二の丸がありそれぞれ高石垣が巡り、本丸と二の丸の周囲に堀が巡らされている。本丸と二の丸の間は廊下橋でのみ通じており、万一の時は橋を落として本丸だけで籠城できるようになっていた。 二の丸の北側にある第一小学校や島原高校のある所に三の丸があった。
現在本丸には天守が再建され公園となっている。本丸の北側には二の丸廊下橋と繋がった桝形虎口が残されているが、本来はここから更に複雑な経路で天守のある曲輪に入るようになっていた。本丸の南側には多段に折れた屏風折の横矢掛けが残る。
第一中学校の西側付近には武家屋敷群と中央に水路がある路地が残っている。
丑寅櫓(復元 櫓)
巽櫓(復元 櫓)
西櫓(復元 櫓)
天守(復興 天守)
本丸内に有料駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)