建保年間(1213年〜1218年)有馬経澄によって築かれたと云われる。 有馬氏の祖は藤原純友あるいは平直澄とも云われるが詳らかではなく、有間庄の開発領主で始め有間氏を称し、後に有馬と改めたと考えられている。
有馬氏が最盛期を迎えたのは天文年間(1532年〜1555年)頃で有馬晴純の時である。 晴純は始め賢純と名乗っていたが、将軍足利義晴より晴の字を賜り晴純と名乗った。 島原半島から肥前東部を制しており、天正年間(1573年〜1592年)に龍造寺隆信が台頭してくるまでは、肥前で最大の勢力であった。
晴純のあと家督を継いだ義貞は、永禄6年(1563年)百合野の戦いで龍造寺隆信に大敗を喫し、以後衰退していく。義貞の家督を継いだ義純は家督相続わずか一年で急逝したため、義純の弟鎮純が家督を継いだ。この鎮純が後にキリシタン大名となった有馬晴信である。
天正5年(1577年)佐嘉の龍造寺隆信の軍勢が島原半島を侵攻すると、有馬氏もこれに対抗できず降った。しかし、天正10年(1582年)晴信は龍造寺を離反して深江城を攻め、天正12年(1584年)には島津氏の支援を受けて沖田畷の合戦で龍造寺軍を敗り、龍造寺隆信は討ち死にした。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で有馬氏は秀吉に従い所領を安堵された。
江戸時代に入り日野江藩四万石の大名となった有馬晴信は、慶長17年(1612年)岡本大八事によって所領没収の上甲斐国都留郡に配流となった。晴信の嫡男有馬直純は幼少の頃から家康の近習となって家康の養女国姫を娶っていたことなどから、父晴信の連座を免れ、家督相続のうえ日野江藩四万石を継承した。その後、幕府に転封を願い出て慶長19年(1614年)日向国縣五万三千石で加増転封となった。
有馬氏転封後、しばらく天領であったが、元和2年(1616年)大和国五條より松倉重政が四万石で入封した。重政は当初日野江城を居城としたが、島原城を築いて居城としたため廃城となった。
日野江城は有馬川の河口北側にある標高70m程の山に築かれている。 城山の東側には大手川、西側は浦口があり、その名が示すように東に大手口、西に搦手口があったようである。
何度目かの訪問にして本丸、二ノ丸はおろか、三ノ丸、曲輪11方面まで草が刈られた状態で見学することかできて感無量である。ただ最大の見所であろう石段やその脇の石垣は埋められたままであり、特別公開される期間以外は見学できないのは残念である。
日野江城は山頂の本丸、東麓の二ノ丸、西の三ノ丸、北の曲輪11、12などで構成されている。二ノ丸、曲輪11、本丸にも石垣(石積)が確認できるが、原城の石垣と比べると明らかに古い時代のものである。
市役所北有馬庁舎の北東にある山が城山。大手口(地図)は大手川に沿って北へ入って行く道沿いに案内板があり、そこに駐車場がある。これを登った所が二の丸である。
搦手口(地図)は西側の谷間を入って行くと「有馬のセミナリヨ跡」があり、その更に奥から本丸のすぐ西下まで車で行くことができる。
最寄り駅(直線距離)